一粒の麦|聖カピタニオ女子高等学校|豊かな人間性を持つために

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愛の軌跡

風薫る5月。さわやかな風が吹いていた5月14日(水)、第51回創立記念日をお祝いいたしました。

1806年、北イタリアのベルガモ県ローベレで誕生した聖バルトロメア・カピタニオ。聖女の生誕地を3月下旬、生徒たちと訪れました。ミラノからバスで約1時間半のところにあるローベレの街。山あいをぬって走っていくと突然視界が広がり、目の前に美しいイゼオ湖が見えてきます。私自身ここを最初に訪れたのは、1983年でした。それからたびたび訪れていますが、町並みはほとんどそのままです。聖女たちが生きていた頃から、そんなに変化はしていないように感じます。もちろん家は増築されていますが・・・・。

聖女たちの記念聖堂を出て、聖女たちの生家を訪問し、その後毎日祈りに通っていた教会、カピタニオが6年間勉強していた聖クララ修道院、当時の病院や刑務所跡を巡りながら、この石畳をカピタニオは何を考え歩いていたのかと、カピタニオの事を考えていました。生徒たちも同じことを、考えながら歩いていたようです。生徒たちにとって、カピタニオは自分たちと関係のない遠い存在でした。ところが、こうしてローベレの街を歩きながら、彼女が自分たちと同じように、自分中心で生きようとしている弱さと闘ったことや、葛藤しながら生きていたことがわかり、とても身近に感じ始めていました。そして、自分から逃げないで自分と向き合いながら生きていった姿勢から、生徒たちはこれからの生き方を学んだようです。

幼い時から神様から愛されていることを強く感じていたカピタニオ。その愛に応えるために、カピタニオは病気の人、刑務所にいる人、危険な道に行きそうな少女たち、孤独な人たちのために、自分にできることを誠実に愛の心を持って行いました。それは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ福音書25章40節)の、み言葉を生きた方でした。その生き方をカピタニオに望まれたのは、神様です。その証拠に、1832年に創立された「幼きマリア修道会」は今も全世界20か国の地で、約4,300人のシスターたちが愛の奉仕をしています。そして、その生きた精神は、本校で学んでいる生徒たちにも受け継がれ、愛の実践が社会の至る所で行われています。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ福音書12章24節)。私たちも自分のわがままな声に従って生きるのではなく、神様の声である良心の声に従っていけば、愛の実を神様が結ばせてくださるでしょう。そのことを考えた、今年の創立記念日でした。

 

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心に愛を注いだ修養会

2013年度修養会は、台風3号の接近が心配されましたが、学年主任の高山先生の3つのてるてる坊主のおかげで、6月12日?14日の3日間お天気に恵まれ、無事終わることができました。生徒たちと教員が心を一つにして、共に作り上げた修養会になりました。

その様子を、的確な言葉でみんなの前で話した実行委員長、副委員長の挨拶文を引用することでお伝えします。

 

 

【開会式での副実行委員長の挨拶】抜粋

修養会の目的は「カピタニオ生になる」ことです。良いお話を聞き、心の中に眠っている良いものに気づく。「私のこころ」と向かい、自分について考える機会を持ち、「今の私」に気づく。お互いに尊敬と思いやりを持って接することの大切さに気づく。私たちは大抵、携帯やテレビなど物が当たり前にあり、自由に過ごせるという日常の生活を過ごしています。携帯やテレビなど生活には絶対必要だと思い込んでいるものから離れ、非日常の中に目を置き、本当に必要なものと出会うのが修養会です。修養会は今の自分と向き合える絶好のチャンスです。この機会を無駄にすることなく将来にもつなげられるように一人ひとり頑張っていきましょう。・・・一人ひとりの意識を大切にし、良い修養会になるように頑張りましょう。そして、ここにいる全員が少しでも一粒の麦のような生き方ができるように、みんなでお祈りしましょう。・・・・

 

【閉会式での実行委員長の挨拶】抜粋

皆さんは、この修養会でどんなことを学び感じることができましたか。私は学んだことの中から二つのことを話します。一つ目は、自分の意見を持ち仲間と協力することの大切さです。これは、初日のグループワークから学びました。意見をまとめてくれる子や、みんなを笑わせてくれる子がいてくれたから、とても良い雰囲気で取り組むことができました。二つ目は、互いに思いやりを持つことの大切さです。これは、止揚学園の福井先生と西神父様のお話から学びました。私も目に見えていることだけでなく、目に見えないことも見ることができるようにして、思いやりの心が持てる人間になっていきたいと思います。・・・・皆さんも修養会で学んだ様々なことを活かし、愛と思いやりの心を持てるカピタニオ生になりましょう。・・・・

 

 

規律があり、生徒たちの笑顔、笑い声があり、私自身もゆったりとした修養会を過ごすことができました。携帯、テレビなしの非日常の生活から、生徒たちは人と関わることの楽しさを体験した事でしょう。修養会に出かける1年生を見送っていた2年生の生徒と交わした言葉、「修養会に行きたい。」「どうして?」「だって、いいお話が聞けるもん」。生徒の心に「良い話」の基準ができていることに喜びを感じ、生徒たちの長い人生の心の基盤をつくる一つの要因に修養会がなっていることを確信した瞬間でした。

 

 

 

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時間を超えて生き続けるもの

 

5月14日、本校は創立50周年を迎えることができました。50周年のありのままの姿を見ていただきたく、施設が不十分なことを承知で式典並びに感謝ミサは、本校のカリタスホームで行うことにしました。この日を迎えることができましたのも、教職員と生徒たちのおかげです。そして、私たちの目に見えないところで私たちを支えてくださっている多くの方々のおかげです。この多くの方々のおかげで、私たちは50年間学校の日々の営みを続けることができたのです。この世に存在している生徒たち一人ひとりは、神様から使命をもらっています。生徒に寄り添いながら、生徒たちが自分の使命を見つけ社会に貢献できる女性になっていく事を手助けできる喜び—-。その喜びを感じられた瞬間でした。

 

1803年北イタリアのローベレで生を受けたバルトロメア・カピタニオは、自分が生まれてきたことの使命に忠実に生きていきました。その結果、全世界20か国で聖女の遺志が奉仕の形で脈々と受け継がれています。その種がイタリアを遠く離れた日本でも実を結んでいるとは、聖女自身考えもしなかったことでしょう。神様のなさることは、人間の考えをはるかに超えていますね(笑)。

 

創立記念日当日は、生徒たちのおもてなしの心が校内に溢れていました。式典のステージは、50本のユリで本校の歴史を表し、緞帳が上がるとそこには校舎が建設される前の青々とした高嶺山をイメージできるように緑を多く配しました。クラスの宗教委員の手によって捧げられた色とりどりの花は、生徒たちを表しています。校舎にいのちを与えるのは、生徒たち一人ひとりです。さまざまな花で飾られたステージに更にいのちを与えてくれたのは、生徒たちの歌声でした。歌声が一つになり会場の人たちを温かく包み込んでくれ、一人ひとりの心に神の愛が注がれたように感じました。まさにカリタスホームに大輪の愛の花が咲き誇り、カリタスホームの屋根や壁を吹き飛ばしそうな迫力を感じました(笑)。

 

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「一粒の麦」の生き方の模範を見せてくださった聖バルトロメア・カピタニオに倣い、私たちは聖女の遺志を継ぎながら学校に新たなページを作り続けていきます。時代は変化していきますが、その中でカピタニオ生たちは変わらない愛の奉仕を社会で生き続けていくことでしょう。

 

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「愛の詩」をそよ風にのせて

5月14日(月)、本校創立49回目を迎えました。午前9時30分、マドレーの鐘の鳴り響く中、みことばの祭儀が始まりました。全校生徒による聖歌「主イエスの愛は?メドレー?」の合唱に合わせ、宗教委員、生徒会執行部、校長先生、理事長先生から聖カピタニオにお花が捧げられました。

司式は、瀬戸教会主任司祭 北向修一神父様です。神父様が朗読なさった福音箇所は、聖カピタニオの生涯を表すヨハネによる福音12章24節?26節「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する人は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(新共同訳)が朗読されました。

その後、理事長Sr.フランチェスカが聖カピタニオの生き方について、次のようにお話をしてくださいました。

『今日は、世界中のカピタニオファミリー何十万人もの人々が、一斉に聖バルトロメア・カピタニオを讃えてお祝いしています。聖カピタニオの故郷ローベレでは、一日中多くの人々が教会を訪れ、聖カピタニオの偉業を讃え、お祈りをささげています。私たちは聖人の生き方から与えられるメッセージを考えたいと思います。キーワードは「愛」(Carita)です。カピタニオは神様に愛されて、その愛に溢れて、人々にその愛を注いでいました。それは“愛の実践”という具体的な生き方で表されました。彼女は17歳で聖クララ修道院での勉強を終え、家に戻った時に「家の中で積極的にみんなに仕えます。自分に仕えられることを避けるようにします。みんなの望み通り行動し、どんなことをたのまれても喜んでします。家の中で家族にやさしく言葉をかけたり、優しい態度で接したり、不機嫌な顔を見せないで、強い言葉を使わないように努力します」。彼女にとって愛の実践の場は、まず自分の家庭であることに気づきました。

聖カピタニオの偉大さは、毎日置かれている環境の中で、子どもたちを教育し、病人を看病し、牢獄の人を慰め、貧しい家を訪問し悩みを聞いてあげる実践的な愛に生きてきたことです。一粒の麦のように、彼女は26歳の若さで亡くなりましたが、今も自分の生き方を通して私たちの生活を照らしてくれます。そうして、私たちもその光をいただいて、日常生活において、カピタニオのように実践的な愛に生きるように呼ばれています。』という内容のお話しでした。

各学年の代表者による共同祈願が行われ、世界の平和と私たちが自分の置かれたところで愛の実践ができるようにと祈りました。

み言葉の祭儀の閉祭の歌は、「La Carita」の全校生徒による大合唱で終わりました。4月に入学したばかりの1年生は、数時間で合唱ができるまでに曲と歌詞を覚えてくれました。毎年、1年生には感心させられます。本校に入学できたことに自信と誇りが持てたように感じられました。終了後、出身中学校にお花を届け恩師に感謝の言葉を述べるために出かけていきました。

みことばの祭儀の後に、今年3月23日~4月1日に行われたイタリア研修旅行の報告会が行われ、生徒たちは自らの言葉で聖カピタニオや聖ヴィンチェンツァの故郷の紹介をしてくれました。イタリアのローベレというカピタニオ誕生の地を実際に訪れて、カピタニオの生き方や彼女が発しているメッセージ、足跡などをその心に鮮烈に刻んだ生徒たちの言葉には、この研修体験の貴重さ、感動の大きさがあふれていました。

次回は、中学校訪問をした1年生の生徒たちの感想を紹介いたします。

 

 

 

 

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私が確立された授業

前回に引き続き、本校独自の授業「宗教」を3年間受けて、生徒の感想を抜粋したものを紹介します。同じ授業を受けても、受け取る生徒たちの個性が十分に表あ現されていて、高校生活でしっかりと「私を確立」し自分に自信が持てたことを知り嬉しく思いました。

 

*3年間を振り返ってみると「宗教」の授業は、キリスト教を学ぶものじゃなく、人間の生き方、人間性、自分を育てていく授業なんだと気づきました。そのことを強く思ったのは、2年生の「ものの見方」の授業です。たくさんの絵を見たり、他人から見た自分のイメージを教えてもらったりして、改めて自分というものを考えさせられました。自分が思っていた自分のイメージと他人が思っている自分のイメージは、一致しているものもあれば、正反対なものもありました。やっぱり自分で考えるだけでなく、客観的な意見も大切なものなんだと思いました。

*3年間の宗教を通して思ったことは、考え方が大きく変わったことです。最初は“つまらない”から始まったのに、今では自分の基盤となっている部分がたくさんあります。3年間でこんなにも変われるものかと思うくらい変わりました。ものの見方、許すこと、愛すること。3年間で宗教の授業から学んだことは言いきれませんが、良い人になろうとせず、ありのままの私でいようと思いました。今の自分への課題は許すことです。どんなに腹が立っても、許してほしい時がある限り、私は許していかなければなりません。そして、宗教を通して出会った多くの人や言葉を大切にして、卒業しても、この学校の生徒らしくいたいと思います。

*高校入学する前までは、一度も考えたことがないことを考えたり、自分と向き合ったこと、この学校に来て学べてよかった。もし、この学校に来ていなかったなら、自分と向き合える機会もないし、ものの考え方やいのち、生と死について真剣に考えることもなかった。宗教の授業で学んだことが自分の身になって、なりたかった自分に近づけたし、自分自身と向き合って変わることができた。また世界の状況や平和のために働いた人の話など、貧しい人たちの現状を知って、今自分に何ができるのかを考える機会があった。そんな時間がなければ考えることすらなかったことを、この授業を使って教えてもらい学んだおかげで、物事を深く考えられるようになった。

*自分について考える授業は、一番悩んだものでした。「自分て何?」何度問いかけても答えは出なかった。自分の中に知られたくない一面を持っていて、そんな自分が嫌で隠しながら生活しているような気になってしまったこともある。周りの多くの人に支えられて、学校では自分の机も椅子もあるし、大好きな家には家族がいる。この状況の中で、もっと自分を見つめなおして、しっかりとしたブレない軸を持った自分を見つけようと思った。これは、3年生になって将来を考える時期になった今、自分の中ですごく支えになっている気持です。飢餓や貧困で苦しむ人たちのことを考えるとなおさらである。この授業を受けてから私は東南アジアの方に目を向ける機会が増えた。将来は東南アジアに関わる仕事に就きたいと思った理由の一つに、この授業がある。

*キリスト教に含まれている「愛」に目を向けることで、生きていくうえで大切なことを学んだと思います。「命」や「愛」、「自分」など考えても考えてもきりがないようなテーマだったけれど、答えを出すのではなくて、考えることに意味があるのだと思います。自分を見つめて、自分について考えることで、相手の気持ちをちゃんと考えられる人になれるのだと思うし、自分のことをしっかり見つめられないときは、相手の気持ちも考えることができないのだと気づきました。

*宗教の授業を通して、すごく印象に残っていることが二つあります。一つ目は「一粒の麦」です。私はたった一粒の麦でちっぽけかもしれないけれど、たくさん集まれば大きな力になるということを考えさせられ、今、必要としていることはこれなんだと感じました。私もこれから社会に出ていくたった一粒の麦くらいちっぽけかもしれないけれど、少しでも力になれる、そして強い気持ちを持って歩んでいきたいなと思いました。二つ目は「ゆるす」ことについてです。パワーポイントを見て強く思ったことは、自分が許されるためにしていることはあるのかなと思いました。自分は何もしていないんだと考えさせられました。そして、自分が許さないことによって、相手の人生も性格も変えてしまうことがあるんだと考えさせられました。

*私は高校で宗教の授業を受けて、宗教への考え方が変わりました。入学前は、聖書にある考えを押し付けて、洗脳して、こういうふうにイエス様は凄いんだって、ひたすら語られるものだと思っていました。堅苦しくて、聖書を暗記しなければいけないとか。でも、この3年間で、もっと自由で個人個人の考えが尊重されるんだと気づきました。そして、イエス様や聖書を信じるも信じないも自由で、考え方を無理に変える必要はないのだと学びました。そのおかげか、私も聖書は自分自身のためになるものだと感じるようになり、疑ってばかりでなく信じることも大事なのだと気づきました。

 

1年生のときにした「愛の実践」の発表の経験は、卒業してからも忘れずに、それぞれの場所で実行されていることを耳にするたびに、「一粒の麦」になって世界の平和のために貢献している卒業生を誇らしく思っています。

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