慰霊の集い|聖カピタニオ女子高等学校|豊かな人間性を持つために

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私たちの託されたバトン

 11月は、カトリック教会では、死者の月になっています。

それにちなんで、本校に関わりのあった方々のご冥福を祈る慰霊の集いを、10月25日(木)の全校朝礼で行いました。

司式をしてくださったカトリック春日井教会の北向修一神父様は、次のようにお話をしてくださいました。

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「全日本実業団対抗女子駅伝予選会(福岡県)で、岩谷産業の第2区岩田玲(19)が残り約200mで走ることができなくなり、四つん這いでタスキを渡したニュースがありました。

単なる美談か、大会ルールの問題かはさておき、選手が渡されたバトンは大変な重みがあり、なんとしてでも送り届けなければならないという姿は、たくさんの人の目に焼き付きました。」

と始められた神父様は、今日朗読されたヨハネによる福音書14章1~6節の、イエスから託されたバトンを弟子たちが受け取ることができない様子の描写にちなみ、幼稚園の運動会の園児たちのリレーの様子を話されました。

 

DSC_1490「幼稚園でもリレーは人気で一刻も早くバトンを受け取ろうとウズウズしています。

渡す方も必死で一瞬でも早く渡そうと張り切っています。

競争やレースを人生に置き換えるならばスポーツのように簡単にはいきません。

両親の言うこと・先生が教えること・先輩の指導など私たちはいつも誰かから大切なものを引き継ぐように託されています。

ところが人生とか生き方は受け取る私たちの心が育っていなければ、正確に受け取れません。

何よりそれが正しいことで受け入れていいものかどうか、自分にその資格があるか悩み、自信がないのは当然なことです。

高校生活はその模索の日々と言っても過言ではありません。」

とお話が続きます。

 

DSC_1511「聖バルトロメア・カピタニオは修道会を創立した後すぐ亡くなり、そのバトンが聖ヴィンチェンツァ・ジェローザに渡された時、受け取った彼女は『自分には無理』と思いました。

しかし、自分の考えではなく神の思いに沿い、そのバトンをしっかり受け取ったからこうして一粒の麦が豊かな実を結ぶことができました。」

「慰霊する私たちも心はまだ発展途上ですが、天国に先立ったシスター方・先生方・生徒の皆さん・本校に手助けしてくださった方々は、私たちを今でも天国から見守り大切なバトンを渡そうと願っています。

聖カピタニオ女子高等学校で学んだことをあなたがたにも伝えて欲しい。

愛徳(カリタ)を大切にする心で、たくさんの人たちを助けてより良い高校生活を送ってほしいという気持ちを感じてもらえたら、私たちの心は自然に祈る心が生まれます。」

とお話を結ばれました。

 

理事長先生から本校に関わった方々のお名前を読み上げられましたが、今年もその名簿に名前が加わりました。多くの方々の思いは時間の流れの中で、永遠に受け継がれていると思うと、まさに神様の働きですね。

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この慰霊の集いの前に、宗教の授業の中で各クラスの慰霊祭を執り行いました。

いのちは受け継がれていることを話しましたが、“今私が存在している”前にどれだけの方々が自分の命を生きていかれたか、その中のお一人でも欠けると自分は今ここにいないことを話しました。

生徒たちが、自分たちが生かされているということに少しでも気づき、毎日の何気ない小さなことに感謝できる心が育っていくように祈ります。

 

 

 

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いのちの繋がり

 ローマ・カトリック教会では、11月2日亡くなったすべての人のためにお祈りを捧げます。

本校では10月26日(木)の全校朝礼の時間を使い、本校に関わりのある方々のご冥福をお祈りしました。理事長Sr.フランチェスカが読み上げられた名前を聞きながら、生前の様子を思い出しました。

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慰霊の集いを司式していただいたのは、春日井教会主任司祭 北向修一神父様です。

神父様は式の中で、次のようなお話をしてくださいました。

 

「今日は、聖カピタニオ女子高等学校に関わる全ての死者のために祈る慰霊の日です。

この慰霊の式にあたり、私たちも家族のような温かな気持ちを持って祈りを捧げたいと思います。

神様は、私たちの成長を最期まで見守ってくれる温かい存在です。

今の私たちと時代を前に生きた方々を、見守ってくださっているのです。

そのことを分かりやすく感じさせるシャルル・ペギーの詩『祈りながらまどろむ子ども』を紹介します。」

と言って、詩を読み上げてくださいました。

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「聖カピタニオ女子高等学校が創立された時、当時の生徒は現在あるグラウンドの整備をしたそうです。

私たちと同じように勉学に励み部活動を楽しみ、揺れ動く自分の心と闘いながら祈り、いつしか眠りこけてしまった時もあったかも知れません。

卒業して社会に出て祈りをしなくなってしまっても、まどろむ子どもを見守るように、神様はその人の一生を見守ってくださっています。

その人生が人の目に成功であろうが、失敗であろうが、神様はこの校舎に関わった一人ひとりの生き方を忘れていません。

私たちの目には永遠の眠りについたように見える先輩方、先生方、学校を支えてくださった人たちのことを、神様のように温かく想い起こして祈りを捧げることによって、感謝の気持ちを伝えたらそれが一番良い慰霊になると思います。

神様の温かい愛がこの慰霊の集いに注がれますように、皆さんで祈ってまいりましょう。」

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 毎年本校に関わってくださった方々を想い起こしながら祈る慰霊の集いは、私たちに感謝の心を育ててくれます。

私たちは学校を通じて、たくさんの方々と関わりを持って、「今」を生きています。

「私が生きている」という考えから「私は生かされている」という考えに徐々にシフトしていけば、毎日が輝かしいものとなるでしょうね。

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「ありがとう」

    10月27日(木)の朝の全校朝礼で、聖カピタニオ女子高等学校に関わってくださった方々のご冥福をお祈りいたしました。

 ここ数年、理事長先生から読み上げられる方々の名前は変わりませんでしたが、今年は難病と闘いながら入学した1年生の名前が付けくわえられました。名前が読み上げられることによって、この学校で出会った方々に私たちは感謝の言葉を述べることができました。

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 今年の司式は昨年に引き続き、瀬戸カトリック教会主任司祭エンマヌエル・ビン神父様でした。

 神父様のお話のキーワードは、「ありがとう」です。そのお話を要約すると、

 

pa260013「皆さん、今ここにどのような心で集まっているでしょうか。亡くなった方々に『ありがとう』の心を持ってきているでしょうか。

『ありがとう』は、なたに伝えたい何よ大切な言葉ある・・・。互いの心心がつながり合感謝の言葉。」

 

pa260016 さらに「らたな目標やそうに向かってんばっている人にどけたいれしいくらいの感謝の気持ち。『ありがとう』の字を組み合わせると『夢』、『喜』、『愛』になります。

『ありがとう』の反対の言葉は、『あたりまえ』です。愛には、憎しみも恨みもありません。『ありがう』の気持ちを持って、毎日を過ごしていきましょう。」

とお話してくださいました。

 

 「いのち」は、その人に与えられた神様からの贈り物です。だから、その人しかその「いのち」を使うことができません。この世で私たちは限られた「いのち」を生きています。

 「おくりびと」(p.170~172引用)の本の中で、平田が火葬場の火葬炉で言った言葉、

 

「死ぬということは終わりじゃない。そこをくぐりぬけて次に向かう。まさに門です。」

「わたしは門番として、ここでたくさんの人をおくってきた。いってらっしゃい、また会おうねって言いながら。」

 

 友人のツヤ子の棺の点火ボタンを押すシーンで語っていた言葉です。

 私たちに必ず訪れる「死」を考えることは、今をどのように生きていくかを考えるきっかけになりますね。そして、「ありがとう」の言葉を忘れず、この世を去った人たちとまた再開できる希望をもって生きていきましょう。

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いのちの繋がり

ローマカトリック教会では、11月は「死者の月」で特に亡くなった方々のことを思い出し、お祈りを捧げる月です。本校は一足早く、本校に関わってくださった教職員、在校中に亡くなった生徒の皆さんの永遠の安息を、今日全校生徒と教職員心を合わせてお祈りしました。司式をしてくださった春日井教会主任司祭、北向修一神父様がお祈りを捧げ、次のようにお話をしてくださいました。(抜粋)

「ミッション系の学校は人の死に対して神様が関わってくださり、死後も安らかに憩っていることを大切に思っています。ですから私たちの一員である学校に関わる全ての人に対して追悼の式を執り行っています。追悼式は私たち自身がその一員であることを自覚する場でもあります。・・・時々葬儀の場で子どもを葬儀に参列させるか否かを問われることがあります。この子は小さいから理解できないのではないか?長い式で我慢ができなくならないか?ショックが大きいから参列させない方がいいのではないかという意見です。もちろん、子どもの発達の度合いによって違うのですが、子ども個人の体験ではなく、子どもと一緒に死について考えてみようという方が大切なことだと思います。」

と言ってから、お母さんが亡くなったことを男の子に告げず、お母さんは旅に出て帰ってこないと言ったために、男の子は苦しんだというお話をしてくださいました。

「・・・いつの日か子どもを産み育てたり、教えたりするであろう私たちが悲しみや喪失感について一緒に考える時が必ずやってきます。死者について追悼する心も学業同様大切なことだと私は感じています。人の繋がりを切ることなく、より強固なものにできることを学べる場は本当に貴重なものです。追悼する気持ちは、そんな人間らしい心を育ててくれるものです。エマソンという人の日記に『悲しみはすべての人に、子どもの心を取り戻してくれる』という一節があります。繋がりがあるからこそ、人は悲しみ、子どものような気持ちを出せるのです。・・・・追悼式は天国に旅立ったとしても、神様が人と人との絆を結び合わせてくださる大切な時間です。・・・・血の繋がった家族ではないかもしれないけれど、同じカピタニオの精神を学んだ兄弟姉妹です。一粒の麦のようにひっそりとこの学校のために力を尽くしてくださった方々を、後輩である私たちが少しでも繋がりを感じ祈って下さったら、きっと天国でたくさんの喜びが生まれると思います。・・・・」

今日の日を迎える前に、各クラスで慰霊祭を行いました。チャペルから出てくる生徒たちの目に、涙が光っていました。神父様のおっしゃったとおり、子どものような素直な心になり「生きる意味」について考える時間になったことでしょうね。

 

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「慰霊の集い」ご冥福をお祈りいたします。

ローマ・カトリック教会では、11月は「死者の月」です。それにちなんで本校は、10月31日(木)全校朝礼の時間を利用して、本校に関わってくださった教職員と在校中に亡くなった生徒さんのご冥福をお祈りする「慰霊の集い」を行いました。

8時30分のマドレの鐘に合わせて式が始まりました。聖歌「われらの母なる」の歌声に合わせ、春日井カトリック教会主任:北向修一神父様が全校生徒の慰霊カードをお盆に載せて登壇。ヨハネの福音書14章1?6節が読み上げられた後、慰霊の集いをすることの意味を次のように話されました。

「・・・私たちが亡くなった人のために慰霊するとき、それによって死者だけではなく、私たち自身の心自体が癒されていきます。思い出すことによって、いつでも生きていた時の想い出やぬくもりを感じることができます。それは私たちの心に慰霊する人たちが生きているからであり、心の一部そのものになっているからなのでしょう。自分の心の中身をのぞいたら自分しかいなかったというのは、心が貧しいものです。自分と繋がっており、その一部とさえなっている心は賑やかで豊かなのです。・・・・今日の福音箇所は、神様がきちんと私たちのために用意してくださる。その道をあなた方は知っていると言います。神様が私たちの愛する者、また私たちを思って見守ってくださる人に、ちゃんと安らぎを与えてくださっている。だから私たちも本校に関わった方々のために祈りましょう。神様の兄弟姉妹である私たちは、この高校を通して家族のように共通のものを受け継いでいます。面識はなくても読み上げられる名前一人一人が、毎日喜び悩みながら生きている私たちのようにエピソードがありました。そして今でも私たちを天国から見守っている方々です。ほんのひと時ではありますが、心の片隅を空けて亡くなった方々のために弔う気持ち・感謝の気持ちを持って、この慰霊祭を一同心を一つにして祈ってまいりましょう。」(抜粋)

校長先生から読み上げられた亡くなられた方々のお名前が、昨年と同じで安堵いたしました。本校を通じて出会った方々に感謝とご冥福をお祈りいたします。また、その方々が私たちのためにもお祈りしてくださっていることを確信いたしました。

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