聖書|聖カピタニオ女子高等学校|豊かな人間性を持つために

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自然から学ぶ謙虚さ

夏休みも終わりに近づき、全国の子どもたちは夏休みの楽しかった思い出を整理しながら2学期に向けて心準備をしていた事でしょう。そんな矢先、広島で土石流が発生し一瞬のうちに尊い命や財産が奪われました。聖書の中に「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。」(マタイ福音書6章34節)というみ言葉があります。そのみ言葉を信じて被災なさった方々が希望を持って毎日を生きられることをお祈りしています。

先日、中部カトリック研修会が行われました。基調講演の講師は、自然農法家 村上真平氏。テーマ「自然によって、自然のうちに、自然とともに」に沿って、ご自身の体験を話してくださいました。村上さんは1982年?2002年、海外協力としてバングラディッシュやタイ、アフリカ等自然農業の普及と持続可能な農業開発の活動に携わっておられました。そして、2002年から福島県飯館村で「自然を搾取しない農業の在り方と、第三世界の人々を搾取しない生活の在り方」の探求と持続可能な生き方を目指し、自然農業、自給自足をベースにしたエコビレッジづくりを始められましたが、2011年3月11日の東日本大震災によって福島県飯館村から避難され、現在は、三重県美杉町に在住し自然農業を再開していらっしゃいます。

村上さんのお話を伺い上がら、私たちは自然の恩恵をどれだけ受けているのか、改めて考えさせられました。旧約聖書の創世記には、「神は天地万物を造られたあと、神はこれをみて、『良しとされた。』」(創世記1章参照)と書いてあります。自然は、万物をお互いに生かし合うように造られています。村上さんは、自然の森が持っている豊かさと持続性の要である「循環性」「多様性」「多層構造」から学ばれ、それを農地づくりに取り入れられました。「人間が生きていくために最低限必要なものは、空気、水、食べ物、衣服、住む家、そして、煮炊きと暖を取るために必要な薪(エネルギー)。これら基本的な六つのものが十分あれば、お金がなくても人間は生きていくことができる。そして、幸せに生きるかどうかは、その人の外に『持っている物』にではなく、その人の内に『在るもの』によって決まる。」とおっしゃったことが印象に残りました。そして、「生命の基である自然を壊さずに、自然の恵みの中で生きる技とマナーを学び、競争から→協力へ、奪い合いから→分かち合いへ、という『共に生きる智慧』を学ぶ生き方、すなわち、『内的な豊かさ』を求める生き方。」を私たちが探し求めていけば、もっと豊かに人間らしく生きていけることを話してくださいました。

私たちは皆、村上さんのような生き方はできませんが、村上さんが教えてくださっている「本当の豊かさ」を知ることによって、自分の生き方を軌道修正できるような気がします。「人間が神のように生きたい」(原罪)と思った時から、人間は自然との関わり方、人と人との関わり方を壊し続けています。村上さんがおっしゃる「内的な豊かさ」を持って生きる事を伝えることこそ、“教育”の使命だと私は確信しています。その事を再確認できた研修会でした。

 

 

 

 

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歩みを照らすみ言葉

新しい年を迎えて、早1か月が経ってしまいました。毎月ブログを書く予定でいた私に、予期せぬ出来事が起こり、あっという間に1か月が過ぎてしまいました。今年は、毎月の聖書のみ言葉についても書きたいと思っています。今年もよろしくお願いいたします。

2月のみ言葉は、「ただで受けたのだから、だだで与えなさい」(マタイ福音書10章8節b)

この聖書のみ言葉は、イエスが12人を選んで派遣する箇所にある言葉です。12人の弟子たちは、イエスを通して自分たちがどれだけ神から愛され、神の前にどれだけ価値のある存在であるか、その喜びを人々に伝えに行きなさいと言われ派遣されて行きました。心が喜びで満たされ、踊るような気持ちで出かけて行った弟子たちの様子が伝わってきます。

私たちに、このみ言葉は何を語りかけているのでしょう。今朝、全校朝礼で生徒たちに次のように話しました。

私たちは欲しいものにばかり目がいき、それが得られないと文句や不平を言いがちです。今聴いたみ言葉はそんな私たちを、違う視点から見るように教えてくれているような気がします。それは、「ただで受けているもの」に気づくことです。「ただで受けているもの」と考えて1番に思い浮かぶのは、「命」だと思います。そして、その命を育んでくださっている家族、友人の愛。まさしく「ただで受けている」ものです。私たちを取り巻く自然も、「ただで受けている」ものです。おいしい空気、青い空、小鳥のさえずり、頬をなでるそよ風など、数えると次から次へと浮かんできます。不平、不満が出てきた時、「ただで受けているもの」に気づけると、自然と感謝の言葉が出て、心が満たされた喜びのある生き方へと変わっていくのではないでしょうか。

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私が確立された授業

前回に引き続き、本校独自の授業「宗教」を3年間受けて、生徒の感想を抜粋したものを紹介します。同じ授業を受けても、受け取る生徒たちの個性が十分に表あ現されていて、高校生活でしっかりと「私を確立」し自分に自信が持てたことを知り嬉しく思いました。

 

*3年間を振り返ってみると「宗教」の授業は、キリスト教を学ぶものじゃなく、人間の生き方、人間性、自分を育てていく授業なんだと気づきました。そのことを強く思ったのは、2年生の「ものの見方」の授業です。たくさんの絵を見たり、他人から見た自分のイメージを教えてもらったりして、改めて自分というものを考えさせられました。自分が思っていた自分のイメージと他人が思っている自分のイメージは、一致しているものもあれば、正反対なものもありました。やっぱり自分で考えるだけでなく、客観的な意見も大切なものなんだと思いました。

*3年間の宗教を通して思ったことは、考え方が大きく変わったことです。最初は“つまらない”から始まったのに、今では自分の基盤となっている部分がたくさんあります。3年間でこんなにも変われるものかと思うくらい変わりました。ものの見方、許すこと、愛すること。3年間で宗教の授業から学んだことは言いきれませんが、良い人になろうとせず、ありのままの私でいようと思いました。今の自分への課題は許すことです。どんなに腹が立っても、許してほしい時がある限り、私は許していかなければなりません。そして、宗教を通して出会った多くの人や言葉を大切にして、卒業しても、この学校の生徒らしくいたいと思います。

*高校入学する前までは、一度も考えたことがないことを考えたり、自分と向き合ったこと、この学校に来て学べてよかった。もし、この学校に来ていなかったなら、自分と向き合える機会もないし、ものの考え方やいのち、生と死について真剣に考えることもなかった。宗教の授業で学んだことが自分の身になって、なりたかった自分に近づけたし、自分自身と向き合って変わることができた。また世界の状況や平和のために働いた人の話など、貧しい人たちの現状を知って、今自分に何ができるのかを考える機会があった。そんな時間がなければ考えることすらなかったことを、この授業を使って教えてもらい学んだおかげで、物事を深く考えられるようになった。

*自分について考える授業は、一番悩んだものでした。「自分て何?」何度問いかけても答えは出なかった。自分の中に知られたくない一面を持っていて、そんな自分が嫌で隠しながら生活しているような気になってしまったこともある。周りの多くの人に支えられて、学校では自分の机も椅子もあるし、大好きな家には家族がいる。この状況の中で、もっと自分を見つめなおして、しっかりとしたブレない軸を持った自分を見つけようと思った。これは、3年生になって将来を考える時期になった今、自分の中ですごく支えになっている気持です。飢餓や貧困で苦しむ人たちのことを考えるとなおさらである。この授業を受けてから私は東南アジアの方に目を向ける機会が増えた。将来は東南アジアに関わる仕事に就きたいと思った理由の一つに、この授業がある。

*キリスト教に含まれている「愛」に目を向けることで、生きていくうえで大切なことを学んだと思います。「命」や「愛」、「自分」など考えても考えてもきりがないようなテーマだったけれど、答えを出すのではなくて、考えることに意味があるのだと思います。自分を見つめて、自分について考えることで、相手の気持ちをちゃんと考えられる人になれるのだと思うし、自分のことをしっかり見つめられないときは、相手の気持ちも考えることができないのだと気づきました。

*宗教の授業を通して、すごく印象に残っていることが二つあります。一つ目は「一粒の麦」です。私はたった一粒の麦でちっぽけかもしれないけれど、たくさん集まれば大きな力になるということを考えさせられ、今、必要としていることはこれなんだと感じました。私もこれから社会に出ていくたった一粒の麦くらいちっぽけかもしれないけれど、少しでも力になれる、そして強い気持ちを持って歩んでいきたいなと思いました。二つ目は「ゆるす」ことについてです。パワーポイントを見て強く思ったことは、自分が許されるためにしていることはあるのかなと思いました。自分は何もしていないんだと考えさせられました。そして、自分が許さないことによって、相手の人生も性格も変えてしまうことがあるんだと考えさせられました。

*私は高校で宗教の授業を受けて、宗教への考え方が変わりました。入学前は、聖書にある考えを押し付けて、洗脳して、こういうふうにイエス様は凄いんだって、ひたすら語られるものだと思っていました。堅苦しくて、聖書を暗記しなければいけないとか。でも、この3年間で、もっと自由で個人個人の考えが尊重されるんだと気づきました。そして、イエス様や聖書を信じるも信じないも自由で、考え方を無理に変える必要はないのだと学びました。そのおかげか、私も聖書は自分自身のためになるものだと感じるようになり、疑ってばかりでなく信じることも大事なのだと気づきました。

 

1年生のときにした「愛の実践」の発表の経験は、卒業してからも忘れずに、それぞれの場所で実行されていることを耳にするたびに、「一粒の麦」になって世界の平和のために貢献している卒業生を誇らしく思っています。

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