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「恋」と「愛」のどっちが好き?
3年生のウマニタスの時間、「恋」と「愛」の違いについて考えました。
女子高校生にとって、この2つの言葉は大変興味のある言葉ですから、その違いについて真面目に考えてもらいました。
この授業を行う前に、同じような内容の記事が中日新聞にも載っておりました。
この記事は、人生経験の豊かな方々の意見が掲載されていましたが、本校生徒の意見も聞いてみました。
「恋」派の意見
*たとえ誰かに恋をして、その人が遠い存在で叶わない相手だったときに、それが恋の感情であれば諦めるのも大変じゃないし、他の人を好きになれるかもしれないけれど、それが愛の感情だったら、諦めなければいけないのが辛すぎるし、他の人のことも考えられないから。恋の方が楽しいことは、多いかなと思う。
*好きな言葉は「恋」だと思うけれど、なりたい自分というか最終目的は「愛」ではないだろうか。私たちは他人に対して条件を求め、自分にとって価値あるものを見出そうとしてしまう。別に「恋」が悪いわけではないが、いつまでも自分勝手でいるとはかなく散ってしまう。だから私は「恋」を経験して、「愛」はどんなものか、これからも探していきたいと思うし、自分も他人を愛することができるようになりたい。
*今はまだ「恋」のことを考えて、楽しい気持ちでいたい。
*「愛」を語り合ったり感じたりするのは、まだ早い気がする。異性に限ったことだけれど、恋の方が気楽な感じがする。
*恋に対しては、キラキラしていて10代のうちは恋に近い気もするが、一過性でいつなくなってしまうかわからないという不安がどこかにある。
*恋はその人が持つ良い部分に惹かれることで、悪いことではないと思います。そして、その人がいいなって思えたら、悪い部分も受け入れ愛に変えていけると思いました。
「愛」派の意見
*自分の命が宿った瞬間から家族からたっぷり愛情を注がれ、関わってきたたくさんの人からもたくさんの愛を与えられてきたことを自分自身で実感しているから。愛を感じるほど、幸せなことはないと思う。与えられた分、誰かに与えたいとこれほど強く思うのは、愛だからこそ!
*愛は友情や家族愛を表す言葉でもあり、自分の大切な人を表す言葉だと思う。だから、愛があれば優しくしたり大切に思うことができる。生まれる前から死んだ後までずっと愛と人間はセットで、一人の人間がこの世に存在する限り、切っても切れないものだと思うし、いつまでも人を愛する気持ちを決して忘れてはいけないと思うから。
*愛は「愛する」という言葉だけでなく、「愛しい」と言う言葉にも「愛」という漢字が使われており、周りの人に対して自分の気持ちを伝えられる。
*家族はどんな自分でも、どんな時でも私を思ってくれていて、これが“愛”だと思った。恋をすることで得られることよりも、愛を受けたことで得られるものの方がずっと大きいと感じた。
*愛は相手のために自分を犠牲にできる覚悟や信頼、責任がともなう言葉であると感じます。私たちは生きていく中で、もし恋がなかったとしても生きることに対する支障をきたすことはありません。けれど愛がなければ、自分らしく、人間的な生き方をすることは決してできないと思います。
*愛のある人生は、それだけでとっても幸せそうだと思った。誰かを自分より大事だって思えたら、それはすごい。誰にも思われず、誰にも愛されず死んでいくのは悲しすぎる。
*自分を犠牲にしてでも守りたいとか、自分よりも大切に思えるとか、絶対的な信頼関係がないとできないことだし、そういう風に自分が恋ではなく愛だと思える相手に出会えることで、愛は自分も成長できるし、心を落ち着かせることのできる相手に出会える言葉だと思った。
*どんな時にも心にあるのは愛だし、お互いに与えあって育んでいく「愛」は人間にとって、何よりも大切なものだと思ったから。「愛」は深くて信頼も生まれるし、何よりも大きなもの。愛は人の心を包み込んでくれるような温かくて、優しいもの。
授業で取り上げる前までの生徒たちは、「恋」と「愛」について真剣に考える機会がなかった分、卒業を間近にし本校でよく耳にした「愛」を考えることに意味があると思いました。
中日新聞5月13日付け新聞の記事を読むと、
「恋は相手の人柄を見ることができることから、いろいろ経験して自分も成長し相手を本当に愛しむことができる人間になっていく。」
というような内容が多く見られました。
人を好きになり愛おしく思える気持ちを持てることは、人生にとって素敵なことですね。
私自身も振り返ると、胸がキューンとなっていた時期があったことを思いだし懐かしくなりますね(笑)。
あの頃は周りが見えず、自分と相手の人しか存在していないと思っていました(若かった!)。
色々な人とお付き合いをして、自分を知るいい機会になっていたことは確かです。
だから、今の生徒たちが、「この人」と決めつけて付き合っている様子を見ると、他にもいい出会いがあるかも・・・と思ってしまい、余計なことを言ってしまいます(今、言っても無理とわかりつつも)。
「恋」は、自分にとって価値があるものを相手の中に見出している時は、上手くいきます。つまり、条件付きですね。
それに反して、「愛」は自分の好みではなく、相手の嫌な所もすべて受け入れ、相手を愛おしく思い自分を顧みない無償の心です。
その愛の存在を具体的に生きて教えてくださった方が、イエス・キリストです。
人を好きになることとはどういうことなのか、恋をいっぱいして、人を愛することができる人へと成長して欲しいと願っています。
思いやりの心を形に!
平成24年度がスタートし、約1か月が過ぎました。
入学式で新入生代表の生徒が、「本校に入学できた喜びと期待をもち、社会に貢献できる自立した女性になるように学校で学べる自分の存在」に気づく一方、東北の被災者の方々が一日も早く元の生活に戻ることができるようにと、復興のための祈りも忘れない内容の誓いの言葉を述べていました。
新1年生を迎え、また新しい本校の歴史が始まりました。
2年生、3年生のウマニタス(総合的学習)の授業は、毎年マナー実習から始まります。玄関の上がり方、職員室での挨拶、礼の仕方、先生に対する言葉遣いの実習を行い、生徒同士でお互いに採点し合います。1年生の実習は、これからです。
3年生は2年間学んだおかげで、玄関の上がり方の説明をしなくてもスリッパの履き方、靴の揃え方は自然にできるようになっていました。また、それに加えて、応接室のマナーと実際に敬語の使い方(DVDも使用)を学びました。生徒の感想を抜粋し、紹介します。
- 言葉遣いによって、相手に与える印象がだいぶ違うことがわかりました。私は自分で敬語を使える方だと思っていますが、もう一度自分の敬語、話し方を見直したいと思います。
- 敬語が話せないと、相手に不愉快な感じを与えてしまうし、聞いていても違和感を感じる。敬語が話せる、話せないだけで、こんなにも差が出るのを見て驚いた。社会に出て恥をかかないように、今のうちからしっかりと身につけておくことが大切だと思った。
- 「若い人はマナーがなっていない」とよく聞くことがありますが、大人でもできていないと思うことがよくあります。DVDで新米社員とベテラン社員の話し方、態度を比較し、ベテラン社員の話し方は聞いていて気持ちがよかったです。
- 敬語が使えると、会社の中でもきちんとやっていけそうな気がします。今まで敬語を使っていなかったので、DVDを見て、改めて学ばないといけないと感じました。できるとできないのでは明らかに違い、できる人の方が周りの人から認めてくれると思います。
- 敬語が使えないだけで、なんだか頼りなく見えたり、礼儀がなっていないようで失礼に思えてしまい、言葉遣いだけで、人の印象も変わることに気づきました。相手を不快に感じさせないようにするためにも、マナーは大切だと思いました。
- 最近、私は生活委員の活動で「あいさつ」をすることが多いのですが、やっぱり元気よく挨拶をしてもらうと凄く嬉しいです。「あいさつ」は、やっぱり全ての基本であることを実感しました。
- 会社に入るとマナーがとても必要とされることがすごくわかったので、早いうちに正しく身につけたい。ウマニタスのマナー実習を通して、相手を思いやるとお互いに良いコミュニケーションが取れると思った。
- 時と場合に応じて、言葉を変えることが大切だと思った。やはり友達同士の会話と違い、目上の方には丁寧に、分かりやすく、はっきりと話すことが一番だと思った。私も普段から先生と話すとき、敬語で話していき、社会に出て恥ずかしくない自分になりたいと思った。
- 仕事での実績を残すことよりも先に、人として受け入れてもらうことが働く上で大切なんだと気づいた。人として関わっていく中で、言葉遣いは必要最低限だと思うので、しっかり気を配りたいと思った。
1年次から何気なく行っていたマナー実習によって、「マナーは、人に対する思いやりの気持ち」であることを実感し、人として身につける必要性に気づくのは、やはり3年生ですね。
このお花は、カピタニオガーデンに植えられた「フランネル フラワー」です。
私が確立された授業
前回に引き続き、本校独自の授業「宗教」を3年間受けて、生徒の感想を抜粋したものを紹介します。同じ授業を受けても、受け取る生徒たちの個性が十分に表あ現されていて、高校生活でしっかりと「私を確立」し自分に自信が持てたことを知り嬉しく思いました。
*3年間を振り返ってみると「宗教」の授業は、キリスト教を学ぶものじゃなく、人間の生き方、人間性、自分を育てていく授業なんだと気づきました。そのことを強く思ったのは、2年生の「ものの見方」の授業です。たくさんの絵を見たり、他人から見た自分のイメージを教えてもらったりして、改めて自分というものを考えさせられました。自分が思っていた自分のイメージと他人が思っている自分のイメージは、一致しているものもあれば、正反対なものもありました。やっぱり自分で考えるだけでなく、客観的な意見も大切なものなんだと思いました。
*3年間の宗教を通して思ったことは、考え方が大きく変わったことです。最初は“つまらない”から始まったのに、今では自分の基盤となっている部分がたくさんあります。3年間でこんなにも変われるものかと思うくらい変わりました。ものの見方、許すこと、愛すること。3年間で宗教の授業から学んだことは言いきれませんが、良い人になろうとせず、ありのままの私でいようと思いました。今の自分への課題は許すことです。どんなに腹が立っても、許してほしい時がある限り、私は許していかなければなりません。そして、宗教を通して出会った多くの人や言葉を大切にして、卒業しても、この学校の生徒らしくいたいと思います。
*高校入学する前までは、一度も考えたことがないことを考えたり、自分と向き合ったこと、この学校に来て学べてよかった。もし、この学校に来ていなかったなら、自分と向き合える機会もないし、ものの考え方やいのち、生と死について真剣に考えることもなかった。宗教の授業で学んだことが自分の身になって、なりたかった自分に近づけたし、自分自身と向き合って変わることができた。また世界の状況や平和のために働いた人の話など、貧しい人たちの現状を知って、今自分に何ができるのかを考える機会があった。そんな時間がなければ考えることすらなかったことを、この授業を使って教えてもらい学んだおかげで、物事を深く考えられるようになった。
*自分について考える授業は、一番悩んだものでした。「自分て何?」何度問いかけても答えは出なかった。自分の中に知られたくない一面を持っていて、そんな自分が嫌で隠しながら生活しているような気になってしまったこともある。周りの多くの人に支えられて、学校では自分の机も椅子もあるし、大好きな家には家族がいる。この状況の中で、もっと自分を見つめなおして、しっかりとしたブレない軸を持った自分を見つけようと思った。これは、3年生になって将来を考える時期になった今、自分の中ですごく支えになっている気持です。飢餓や貧困で苦しむ人たちのことを考えるとなおさらである。この授業を受けてから私は東南アジアの方に目を向ける機会が増えた。将来は東南アジアに関わる仕事に就きたいと思った理由の一つに、この授業がある。
*キリスト教に含まれている「愛」に目を向けることで、生きていくうえで大切なことを学んだと思います。「命」や「愛」、「自分」など考えても考えてもきりがないようなテーマだったけれど、答えを出すのではなくて、考えることに意味があるのだと思います。自分を見つめて、自分について考えることで、相手の気持ちをちゃんと考えられる人になれるのだと思うし、自分のことをしっかり見つめられないときは、相手の気持ちも考えることができないのだと気づきました。
*宗教の授業を通して、すごく印象に残っていることが二つあります。一つ目は「一粒の麦」です。私はたった一粒の麦でちっぽけかもしれないけれど、たくさん集まれば大きな力になるということを考えさせられ、今、必要としていることはこれなんだと感じました。私もこれから社会に出ていくたった一粒の麦くらいちっぽけかもしれないけれど、少しでも力になれる、そして強い気持ちを持って歩んでいきたいなと思いました。二つ目は「ゆるす」ことについてです。パワーポイントを見て強く思ったことは、自分が許されるためにしていることはあるのかなと思いました。自分は何もしていないんだと考えさせられました。そして、自分が許さないことによって、相手の人生も性格も変えてしまうことがあるんだと考えさせられました。
*私は高校で宗教の授業を受けて、宗教への考え方が変わりました。入学前は、聖書にある考えを押し付けて、洗脳して、こういうふうにイエス様は凄いんだって、ひたすら語られるものだと思っていました。堅苦しくて、聖書を暗記しなければいけないとか。でも、この3年間で、もっと自由で個人個人の考えが尊重されるんだと気づきました。そして、イエス様や聖書を信じるも信じないも自由で、考え方を無理に変える必要はないのだと学びました。そのおかげか、私も聖書は自分自身のためになるものだと感じるようになり、疑ってばかりでなく信じることも大事なのだと気づきました。
1年生のときにした「愛の実践」の発表の経験は、卒業してからも忘れずに、それぞれの場所で実行されていることを耳にするたびに、「一粒の麦」になって世界の平和のために貢献している卒業生を誇らしく思っています。
ウマニタスが教えてくれたこと
2o12年が皆さん一人ひとりの心に「希望」をもたらし、新たな一歩を踏み始められたことでしょう。
私がブログを始めて2か月になります。慣れない私がブログを始めたのは、学校が行なっている教育を具体的に皆さんにお伝えすることと卒業生の皆さんに本校で受けた教育を思い出し、各自に与えられている人生の道をまっすぐに歩く助けにもなればと思ったからです。今年もよろしくお願いいたします。
本校独自の教科に、ウマニタス(総合学習+女性学)と宗教の授業があります。今回はウマニタスの授業について、紹介したいと思います。
ウマニタスとは、もともと人間性や人間らしさという意味のラテン語です。この教科は、マナー、ジェンダー、性の学習、女性史を4つの柱としています。入学してすぐの授業では、挨拶やお辞儀の仕方を学びますが、生徒たちにとって”当たり前”のことをわざわざ学ぶことに首をかしげています。しかし、3年間を通じて女性として、人間としての生き方を考え学び合うことによって、生徒たち一人ひとりは自分に自信をもって卒業の日を迎えています。
今回は、生徒たちの感想を抜粋して紹介したいと思います。
*高校3年間という大切な時期に、ウマニタスを学ぶことができてよかったと思います。お辞儀には三種類あって、それぞれの状況に応じて使い分けなくてはならないことやマナー実践(玄関の上がり方・靴の揃え方)を毎年学ぶことによって自信が持てるようになりました。
*3年間ウマニタスを学んで一番私が思い出に残るのは、マナーの授業です。挨拶、敬語の使い方、お辞儀の角度など最初は面倒だと思っていたことも、これから社会に出るにあたって一番役に立つことを教えてもらいました。人と話し合ったりすることが苦手だった私が、今では普通にみんなの輪に入れるのも、この授業のおかげかなと思っています。
*2年生の時に仲間と一緒に調べ学習をし、みんなの前で発表をし、学年で一番良い成績をおさめることができました。他のグループの意見や考えを聞き、「そんな考え方があるんだ!」と新しい知識を得ると、また別の「新しい考え方を知る」ということができます。みんな丁寧にまとめあげたものを発表するので、とても楽しかったです。
*新聞発表のために記事を探したけれど、自分が発表しない時も新聞を読んで、女性に関係する記事が目に入るようになった。
*“ジェンダーとは何か”“性同一性障害”“女性の生き方”とか“性”に関することをたくさん学んで、女性らしさや女性に生まれたことの素晴らしさ知ったとともに、今昔の女性ゆえの立場や制度に悩まされて生きていく難しさも知った。だけど、授業や新聞発表を通じて感じたことは女性がパワフルであること、楽しんで今を生きている人がたくさんいるということ。これから先、「女性だから?」とか性が原因で問題にぶつかることもあるかもしれない。その時は、ウマニタスで学んだ女性の生き方を思い出して前向きに進んでいきたいと思う。
*女性について学んだことは、イコール自分のことであり、生きていくうえで嫌でも意識しなくてはならない部分である。ウマニタスでは様々なことを通して、一つのカテゴリーとしての自分を客観的に見つめる機会があってよかったと思う。
*この授業を通じて、自分を客観的に見つめなおしたことで、自分の善いところ悪いところに気づくことができました。自分の性格をよく理解できたことが、友人や他人を理解し、受け入れるということにつながりました。高校3年生になった今、他人と自分との違いを感じても、違和感を感じることなく受け入れられるし、十人十色という言葉があるように人それぞれ違う方が味があってよいのだとひしひしと感じられるようになりました。
*女性学を学んで世の中には女性という「性」の問題で苦しんだ人もいれば、女性という「性」を生かし生き生きと輝かしい人生を送っていらっしゃる方もいることを知って、「性」って何だろうと考えるきっかけになりました。今では、女性差別は少なくなったけれど、まだまだ「性」に関する問題は世の中にたくさんあると思っています。だから、私はこれからの人生を歩んでいくうえで、自分の考えだけにこだわったりするのではなく、広い視野を持って判断できる女性になりたいと思いました。
*将来がある私たちには、過去を学ぶ義務があります。自分自身のこと、自分の国のこと、世界のことについて視野を広げて、全体の中から客観的にものを見ることも時には大切です。それを踏まえて、自分がどうあるべきかということを考えて自分で自分の人生を作り出すことができるからです。自分の意見を表すことによって他者からの理解や意見をもらい、自分の姿が作り出されると思います。
次回は、宗教の授業について紹介いたします。