「2019年06月」の記事
非日常生活で気づいたもの
スマホ無し、お菓子は持っていかない、テレビは見ないのルールのもとに行われた修養会。
日常生活から離れ、非日常生活を通して自分と向き合う時間を生徒たちはどのように過ごしたのでしょうか?
生徒たちの感想文を抜粋して紹介します。
*私は普段家にいるとすぐゲームを始めるので、人とのコミュニケーションがあまりなかったけれど、
今回スマホがないので今まで深く話したことのない友達とも深く話せたり、新しい友達ができて人とのコミュニケーションはとても大切だなと改めて思いました。
そして私はキリスト教を信仰しているわけではないのですが、キリスト教の考え方に従っていると自分の心の扉が開いてきて、だんだん素直な自分になってきていることを実感しました。
*私はこの修養会で1つの疑問が生まれました。それは『自分らしい』って、何だろう?です。
修養会で自分と向き合ってみて、どれが本当の自分なのか、私らしいって何なのかと考えさせられました。
そして、3日間のたくさんのいろんなお話は全てつながっていると感じました。
“カピタニオ生”とは、人を愛するために自分自身を愛せる人であり、命を大切にできる人であり、
表面ではなく「感じ」を大切にすることができる人だということ。先輩がそうであったように!
*止揚学園や神父様から人間の在り方を聞きました。
今まで道徳で、「思いやりの心をもつ」ことについて学んできました。
この修養会で、何故その心を持たなければならないのかを考えました。それは、人間誰しも全ての人のことを分かっているわけではない。
だから、お互いを理解するために「思いやりをもつ」ということを知り、人の心に気づくという生き方を学びました。
*グループワークで普段あまり話すことがない人と一緒に地図を描いたり、謎を解いたりすることが楽しかったし、
自分の言っていることや相手が言っていることが伝わってきた時にとても嬉しく思いました。
自分が言ったことを理解してくれることが嬉しいなんて初めて思いました。
ミサの時神父様のお話の中で、「人間生活の中でとても大事なことは『赦す』ということです。」というお話で、
赦すと認めるということは、似ているのではないかと思いました。
*スマホやお菓子もない今の状況で、「話す」ということだけだったからこそ、日常の時よりも深い話とか内容の濃い話とかが、お互い「素」を出してのんびり話せたので、
「ただ仲良し」ができた感じじゃなくて、「素のリラックスした自分で一緒にいれるような友達」になれて、それが本当の意味での「良い友達」って言えるのかなと実感しました。
生徒たちの感想文を読むと、同じ3日間を過ごしても、一人ひとり感じ方が違うことに感心します。
それは当然のことなのですが、感想文から一人ひとりの顔が見え、神様がこの経験を通してその生徒の成長に必要なものを与えておられることを実感しました。
体験を通して得た“気づき”が、その人を確実に成長させますね。これからの成長が楽しみですね!