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素直な心
コロナ禍の中では、学校で1日ないし2日で行っていましたが、やはり学校を出て他の施設で行う修養会は違いますね。
例年は2泊3日で行いますが、今年は1泊2日で過ごし、まさしく非日常生活を過ごす経験ができました。
止揚学園の福井先生から、知能に重い障害を持った人たちと過ごし、いろいろ学ばせてもらっていることを熱く語っていただきました。
また、片岡神父様から「善いサマリア人のたとえ話」から人間としての生き方を考えさせていただきました。
良いお話で心が豊かになり、つま恋の食事でお腹が満たされた修養会の様子を、生徒の感想文を抜粋して紹介します。
*障害者施設の方々がわざわざ私たちのために遠方から来てくださり、講演をしてくださいました。
差別に対して敏感な方であったけれど、止揚学園の方は私と違う考えを持っていたので、他の人に耳を傾けてみると違う視点から見たり、違う意見を知ることができるから、このように学ぶのは本当に良い事なんだなと思いました。
*今まで体験したことのない様々な非日常を経験して、自分の知識や価値観などが広まり、また、たくさんのお話を聞いて「カピタニオ生」でなかったら絶対に気づけなかった「温かい命」「隣人」「愛」などについて知り、考え、これからの3年間だけでなく、その先の将来まで続いていくようなことを身に付けることができました。
そして、自分の経験が糧となったことを土台として、いろいろな行いをしていき「一粒の麦」となれるように、日々歩んでいきたいと思える修養会になれました。
*「善いサマリア人のたとえ話」を2度読んだが、主に生まれた感情は「放っておくなんてひどい」だった。神父さんの話を聞いていて、この話の深さが少しずつ理解できるようになった。
仲間だと思っていたものに見捨てられ、その上で見ず知らずの「けがれた敵」に救われる。そこまで考えてみると、何故イエスがこの話をしたのかが良く分かる。隣人のイメージがもっと広くなった気がする。
・・・私はこの社会が不思議に思える。
みんな心の中では愛を欲しているのに、周りの人に与えようとは一切しない。
「自業自得」「自分で責任を負うべき」と小学校などで教えられているからではないだろうか?自立とは少し違う気がする。
*神父さんのお話の中で、「誰もが弱い存在」だという言葉が出てきたとき安心しました。
今の自分は何もかも慣れないものばかりで、普段の生活や勉強なども不安なものがたくさんあります。
でも、この講話を聞いて、周りの人も私と同じような状況に置かれているんだなと知ることができました。
1日目のグループワークでは、前から感じていた自分自身の弱い点を改めて感じました。
今まで直したいと思っていたけれど、まだ直せていなかったので、これが本当の自分の姿なんだと感じました。
*私は今まで過去を思い出しては落ち込んだり、何度も何度も反省を繰り返すことがたくさんありました。
福井先生のお話の中に「時間が戻ってくる」という言葉がありました。
自分を見つめ直すためには、現在と過去のどちらも見ることが必要で、恐れを感じることもありますが、「今」があるのは、「あの時」があるからだと思います。
これこそが「時間が戻ってくる」ということではないかと考えました。
生徒達の感想文を読むと、私の方が心を洗われ、素直な心になっていきます。高校生という感受性豊かなこの時期に、見えない世界を見る心の目、痛む人と共に共感できる心こそが、人生を幸せにするキーワードであることを確信したようです。
心が穏やかになると、人間は素直になれるのですね。
立ち止まって考える時間
今年は本校で2日間に短縮し、例年行われていた修養会の内容を無事行うことができました。講師の先生お二人にお越しいただき、もう一人の先生、止揚学園の福井先生はZOOMで参加してくださいました。
*学校で行われた修養会ですが、いろいろ勉強になりました。私は友人を作ることが苦手です。常に、いつか裏切られるかもと言う恐怖心があるからだと今日気づきました。自分を愛さないと、他者も愛せないので、まず自分を大切にしてみようと思いました。
*修養会を終えて、私は前の自分と大きく変化しました。瞑想を実際にたくさん行ってみて、自分の心を落ち着かせる行動ができてよかったです。また、名前の話が心に残っています。最近、何もできないことにイライラして、親に当たり散らしていました。そんな現状があるからこそ、心を込めて親が名前を付けてくれたことを知って、ちょっと泣きそうになりました。生涯変わらないものは名前だから、親から授かった名前をこれからも大切にしていこうと思いました。
*修養会で確かに得たものは、一つあります。それは自分で考える力です。これまで、こんなに長い時間にわたって話を聞き、感じたことを書き綴る事なんてありませんでした。前々から言われていた自分の心を素直に書く力は、少し身に付いたのではないかと思います。この経験を糧に、最後には自分に自信を持った堂々とした人間になれるよう頑張りたいと思いました。
*今まで自分の中だけで考えてきたことを、別の人の視点、それも今まで触れたことのなかった宗教という視点から考えられて、より自分の考えが深まりました。特に、マインドフルネス瞑想は、私の悩みにぴったりでした。未来の予定に振り回されている自分に、立ち止まる大切さは深く心に刺さるものがあります。動物としての人間よりも、他の動物とは違う人間として生きていきたいですし、そのためにはまず感情をすぐに表に出さず、行動にも出さないことを心がけて常に考えて動けるような人間になろうと思います。
*ブラインドウオークの体験をして、「相手を思いやる」と言うことを学びました。手を引く側の私は自分と相手の周りをよく見て、安全に行動するということが難しかったです。反対に、今度は手を引かれる側になった時、最初は怖かったけど、相手の行動から自分への思いやりが伝わってきて嬉しかったです。この経験は、神父さんが話してくださった「隣人を自分のように愛する」と言うことに繋がると思いました。
*この2日間でいろんな方のお話を聞いて、私はこれから生きていく中で目標が2つ増えました。まず1つ目は、自分の気持ちと正直に向き合って、心によい刺激を与える努力をすることです。心によい刺激が与えられたら自然と成長でき、心の穏やかな人になれると考えたからです。2つ目は、人の核心を突くような言葉を紡ぎだすことのできる力を持った人になることです。様々なお話を聞いて感動した場面や大切なことに気づかされた場面がたくさんありました。なので、私の言葉で人を救うことができたり、心を変えられる言葉を発せられる人になりたいと思いました。
*1日目、朝のSTで担任の先生に携帯を預けてから、私は凄く不安になった。携帯が自分の近くにないだけで不安になった自分を見て、「私は重度の携帯依存症だ!このままでは頭がおかしくなるんじゃないか?」と携帯を手放して初めて気づかされた。だから、これからは母と相談して携帯を使う時間を決めたので、取り返しがつかなくなる前に対応したいと思いました。
*初めての修養会を終え、「違いを認め合う友だち関係」を作るという言葉が印象に残りました。私はいつも自分の意見に自信が持てなくて、よく人の意見に流されていたけれど、違いを認め合う関係を作ることが大切と学び、自分の考えに自信を持つようにしようと思いました。友だちの意見もしっかり聞ける人になりたいです。
*「怒りのコントロール」の方法も知ることができたので、相手に怒りをぶつけてしまう前に呼吸法を活用し、心を落ち着かせるようにしたいです。そして、頑張っている自分を認めて、ストレスをため過ぎないように気を付けようと思いました。
落ち着きがなくなってきた1年生のこの時期に、各クラスで人間関係による問題が生じてきた時だったからこそ修養会を行うことができたことは感謝です。
2日間の非日常生活を経験し、立ち止まって自分と向き合う時間を持つことの大切さを、生徒たちの感想文から教えられました。
他にも、止揚学園の福井先生のお話から、障がいを持った人への偏見がなくなり、相手をあるがまま認め合うことの大切さに気づき、止揚学園のボランティアにぜひ参加したいと思う生徒もたくさんいました。
今回、ZOOMで新しくなった建物を見学でき、止揚学園の方々も参加してくださり、より止揚学園の生き方が伝わっていたと思いました。
コロナ禍で思いっきり活動ができず、悶々とした気持ちで過ごしていたからこそ、立ち止まる時間を持つことによって、自分の心をリセットできた生徒たちもいましたが、まだまだ自分と向き合うことが怖く、自分から逃げている生徒もいます。
思春期真っただ中を過ごしている生徒たちが、本校での生活を通して「自分を大切にする」ことを学んでいってほしいと願うばかりです。
私の存在
1年生の大切な行事「修養会」は、11月12日(木)コロナ禍の影響で1日のみになりましたが、実施することができてホッとしています。
今年の会場は校内になり、修養会の非日常をどのようにして生徒たちに味わってもらえるのか、苦労致しました。1時間目は、クラス担任によるワーク。2時間目は、スクールカウンセラー平田先生による「怒りのコントロール」。3限目と4限目は、イエズス会の柳田神父様から「心に愛を育み、自分と他者を大切にする」というテーマでキリスト教人間観と瞑想を紹介していただきました。午後は、生徒たちが初めて経験するごミサで、1日だけの修養会を無事終えることができました。
生徒たちの感想を抜粋して紹介いたします。
*今まで普通に生活してきた中で、これほど長い時間自分の心と素直に向き合ったことは一度もないということに気づきました。確かに「自分の心と素直に向き合う」ことは簡単なことではないし、この学校に入らなければ、もしかしたら一生こういう貴重な時間を経験することはなかったかもしれないと思います。
*今年はコロナの関係で“修養会”を例年の2泊3日で行うことができなかったことを考えると、非常に残念です。友だちとの絆を育みながら、キリスト教についても多く学べると思っていたので、少し悲しいような、寂しいような、そんな気がします。でも、「今年は例年の先輩方が体験しなかったような修養会」と考えると、なんとも喜ばしい気持ちになります。カリタスホームで行われましたが、シスターから「ここを違う場所だと思って・・・」とのことでしたので、私はアイルランドを思い浮かべ参加させていただきました。
*「神様」という存在は、私たちの理想なのではないかと思いました。まだ誰も姿を見たことがないし、本当に存在しているかなど、誰にも証明できないけれど確かに「神様」は存在しているのだと、今日初めて思いました。神様が私たちの理想だとしたら、“他人に手を差し伸べなさい”“隣人を愛しなさい”という言葉、考え方、生き方は私たちが一番望んでいるものじゃないかと思いました。
*私は中学の時、辛い、苦しい経験をしたことがあって、当時の私は自分も人も嫌いでした。でも、その経験を通して変わろうって思えたし、今、私は自分のことを受け入れることができています。そのようになってから、人のことも受け入れられるようになったので、自分自身、ありのままの自分を愛することは大切なことなのだと本当に実感しています。今までの人生の中でこれほどまでに有意義な時間を過ごしたのは初めてだと思えるほど、私の中では重要で大切な時間でした。現代の私たちはスマホやパソコンとにらみ合っている時間が多く、だらだらと時が流れるのを待っている時間が長いと思います。その時間を少しでも減らし、「自分の心と素直に向き合う」という価値のある時間に充てるのも悪くないなと思います。
*「怒りのコントロール」についてのお話の中であった、「怒る前の気持ちが本当の気持ちである」ということを初めて知ることができたので、これから自分の怒りのサインに気づき、怒る前の気持ちを深呼吸しながら考えてみたいと思いました。
*神父様のお話では、瞑想するといいということを学びました。そしてびっくりしたのは、呼吸=神様。神様はいい人悪い人に関係なく、分け隔てなく接してくださる。呼吸もいい人、悪い人関係なく無条件に受け止め生かそうと働くそのことから、呼吸=神様というのがすごくびっくりしました。どちらも無条件に無償で与えてくださることに。
*神父様のお話で、「愛」の意味を改めて学べたような気がします。マザーテレサの「大切なのは、どれだけ心(愛)を込めたかです。」という言葉を私も大切にしたいなと思うことができました。
*神父様のお話を聞いて、「するモード」から「あることモード」へ心を切り換えることの大切さを知り、それと同時に、怒っている時に切り換えることができるように、心を成長させていきたいです。
*ごミサに初めて参加してみて、あまりの荘厳さにとても驚きました。カリタスホームの空気がいつもと違い180度変わったようでドキドキしました。まさに“愛の家”という雰囲気で、実際に教会に訪れたように感じました。ミサが始まると一気に取り込まれたような心地になって、時間を忘れてしまいました。
1年生は6月から学校生活をはじめ、これまで味わったことのないキリスト教の雰囲気に戸惑いを感じていました。私の宗教の時間の話など、宇宙人が話しているような感じで聞いていました(笑)。
この修養会が彼女たちにとって、よい話を聞くことの大切さや、自分と向き合うことの大切さに気づき始めるきっかけになったことは確かです。そのために、自分をありのまま受け止めることを心がけていこうとし始めた彼女たちが、3年後には自分の存在価値に目覚め、自分を大切にする術を見つけて卒業してほしいと心から願いました。
非日常生活で気づいたもの
スマホ無し、お菓子は持っていかない、テレビは見ないのルールのもとに行われた修養会。
日常生活から離れ、非日常生活を通して自分と向き合う時間を生徒たちはどのように過ごしたのでしょうか?
生徒たちの感想文を抜粋して紹介します。
*私は普段家にいるとすぐゲームを始めるので、人とのコミュニケーションがあまりなかったけれど、
今回スマホがないので今まで深く話したことのない友達とも深く話せたり、新しい友達ができて人とのコミュニケーションはとても大切だなと改めて思いました。
そして私はキリスト教を信仰しているわけではないのですが、キリスト教の考え方に従っていると自分の心の扉が開いてきて、だんだん素直な自分になってきていることを実感しました。
*私はこの修養会で1つの疑問が生まれました。それは『自分らしい』って、何だろう?です。
修養会で自分と向き合ってみて、どれが本当の自分なのか、私らしいって何なのかと考えさせられました。
そして、3日間のたくさんのいろんなお話は全てつながっていると感じました。
“カピタニオ生”とは、人を愛するために自分自身を愛せる人であり、命を大切にできる人であり、
表面ではなく「感じ」を大切にすることができる人だということ。先輩がそうであったように!
*止揚学園や神父様から人間の在り方を聞きました。
今まで道徳で、「思いやりの心をもつ」ことについて学んできました。
この修養会で、何故その心を持たなければならないのかを考えました。それは、人間誰しも全ての人のことを分かっているわけではない。
だから、お互いを理解するために「思いやりをもつ」ということを知り、人の心に気づくという生き方を学びました。
*グループワークで普段あまり話すことがない人と一緒に地図を描いたり、謎を解いたりすることが楽しかったし、
自分の言っていることや相手が言っていることが伝わってきた時にとても嬉しく思いました。
自分が言ったことを理解してくれることが嬉しいなんて初めて思いました。
ミサの時神父様のお話の中で、「人間生活の中でとても大事なことは『赦す』ということです。」というお話で、
赦すと認めるということは、似ているのではないかと思いました。
*スマホやお菓子もない今の状況で、「話す」ということだけだったからこそ、日常の時よりも深い話とか内容の濃い話とかが、お互い「素」を出してのんびり話せたので、
「ただ仲良し」ができた感じじゃなくて、「素のリラックスした自分で一緒にいれるような友達」になれて、それが本当の意味での「良い友達」って言えるのかなと実感しました。
生徒たちの感想文を読むと、同じ3日間を過ごしても、一人ひとり感じ方が違うことに感心します。
それは当然のことなのですが、感想文から一人ひとりの顔が見え、神様がこの経験を通してその生徒の成長に必要なものを与えておられることを実感しました。
体験を通して得た“気づき”が、その人を確実に成長させますね。これからの成長が楽しみですね!
「いのち」の主役は、わたし!
平成30年度1学期は、無事終了しました。
1年生にとって初めて経験する事ばかりでめまぐるしい日々だったと思います。
その中で、修養会の経験は生徒たちにとって新鮮で自分と向き合うことを体験できた行事になり、思い出深いものになったようです。
生徒たちが感じた修養会の感想を読み終えた今、生徒たちが感じたことを分かち合いたいと思います。
分かち合いは、物事の本質を深くとらえることができます。
日頃忙しくして生きることを深く考えない私たちに、生徒たちの気づきが私たちを立ち止まらせ考える時間を与えてくれるでしょう。
*スマホがないだけで、こんなにたくさん話せるんだ!お菓子がないだけで、おいしいご飯がたくさん食べれるんだ!と気づくことができました。
そして、空いている時間に自分が苦手だなと思っていた子とたくさんお話をすることができ、いい機会を持つことができました。
自分の一方的な判断で、この人は多分合わないと思うという思考をやめていきたいと思いました。
金子神父さんや福井先生から「人間」についてのお話が聞けて良かったです。
「人間とは何か?」「私は誰?」という疑問についても深い考えを生み出し、とにかく私たち“人間”についてよく考えた3日間でした。
*修養会を終えて、私の弱いところは、誰かと比較してしまうことだと分かりました。
比較するということは、人間の「クセ」だと金子さんが言っていました。
私は授業でも自分の書いた意見が間違っているのではないかと、いつも誰かの意見を見て似ているようなことを書いているか確認してしまいます。
でもこの修養会での話を聞いて、考えが変わりました。友だちと意見が違ってもいいことに気づくことができました。
自分は自分の意見をしっかり持ち、相手に伝える、それができるようになりたいと思うことができました。
*私は自分を見つめ直すとか、本当の自分を知るということが苦手でした。
昔からうわべだけの関係の友達が多く、私を受け入れてくれる人が居なくて、その原因は自分自身にあることぐらいは分かっていたから、自分の悪いところなんて知りたくないと思っていました。
しかし、この修養会でわかったことがあります。まず、自分を認めてあげること。
私がまず私を分かって愛してあげないと周りから愛をもらえないことを知りました。
性格的に良いところは認めるけれど、悪いところも含めて自分だと認めてあげることで、なんだか少し心が軽くなって次に進める気がしました。
*「人が独りでいるのは良くない。」という言葉は確かにと思った反面、その後にあった金子神父様の話の中で、「孤独と向き合うことで、それが人間の価値をつくる。」というのがあったので、孤独になることも自分にとって必要なことだと思った。
自分はたくさんの関わりの中で生きている。
家族、友達、先生など、たくさんの人の支えで生きることができているのだと改めて実感した。
生きることは無条件に愛されることであり、「ありがとう」と言うだけの小さなことでも「愛する」ことなんだと分かった。
人間には誰かの愛が必要であり、それをお互いに求めている事も分かった。
「あなたは私の愛する子」とあるように、自分は独りではないし、たくさんの人に支えてもらって生きていることを忘れないで、これから過ごしていきたい。
そして、自分の弱さは責めるのではなく、認めることによって、日々の生活はもっと楽しくなると思った。
毎日の生活から離れ、非日常生活に身を置くことは人間にとって大切な時間であることを、生徒たちの感想から気づかされますね。
今年の高校生活入門セミナーの保護者コーナーで少しお話させていただきましたが、キーワードは「主体的」ですね。主体的に行事に参加したからこそ本人が気づきを得、次のステップの方向性や手段について考えることができます。
人生の主役は、誰でもない「わたし」です。
社会に振り回されて生きるのではなく「主体的」に生きることを学ぶ機会が、本校にはたくさん準備されていますね(笑)。
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