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愛に生きる
第59回創立記念日を、5月13日に全校生徒と教職員でお祝いをすることができました。
これまでコロナ禍で歌声なしの「み言葉の祭儀」を行ってきましたが、今年は「鹿のように」と「校歌」を全校生徒で合唱することができ、カリタスホームに生徒たちの歌声が戻ってきたことの喜びを、生徒以上に教職員が感動していたように感じました。
恒例の「ラ・カリタ」はCDで流しましたが、その歌声に生徒たちは感動し、来年は自分たちで歌いたいという望みを持ったようです。
「み言葉の祭儀」の中で理事長先生は、聖カピタニオが書いた日記と手紙から教えられた彼女の生き方を次のようにお話をしてくださいました。
「彼女の生き方を一つのキーワードで表すと、それは愛です。
イタリア語でカリタと言います。
彼女は神様に愛されて、その愛が溢れでていたから、皆にその愛を注ぎました。
愛に生きる、愛の実践をすることが、彼女の夢でした。
彼女にとって愛を生きることは抽象的なことではなく、具体的な意味を持っていました。
言い換えれば、奉仕をする、人に仕える生き方でした。
“家で積極的にみんなに仕えます。みんなの望み通りに行動をし、どんなことを頼まれても喜んでします。家の中でみんなに優しい言葉をかけたり、優しい態度で接したり、不機嫌な顔を見せないように努めます。”
聖カピタニオにとって愛の実践をする場は、まず自分の家庭であることに気づかされました。
聖バルトロメア・カピタニオの偉大さは、新しい修道会を創立したことではなくて、毎日置かれている環境の中で、実践的な愛に生きたことです。
疲れを見せず、自分の利益を考えないで無償の愛の心をもって、短い人生のうちにたくさんの愛の業を行いました。
しかし、カピタニオは自分の弱さを感じて神様に次のように願いました。
“神様、貧しい人々、病気の人のために、苦労、時間、面倒なことがあってもかまいません。あなたから彼らに仕える方法を学びたいのです。神様、広い心、寛大な心をお与えください。あなたの愛の一滴を頂ければ、私は何でもできます。あなたから頂いた命、健康、才能、目、手、足を全て人に役立つように使います。”
一粒の麦のように、26歳の若さで亡くなった聖カピタニオは、今も自分の生き方を通して私達の生活を照らします。・・・」
理事長先生は私たちに、今一人ひとりが置かれているところでカピタニオのように愛に生きる生き方を教えてくださいました。
式典後、1年生は出身中学へお花の鉢を、2,3年生の代表の生徒たちは、日頃お世話になっている施設へお花の鉢をそれぞれ届け、日頃の感謝の言葉を伝えるために出かけて行きました。
この行為を通して、生徒たちは自分一人で生きているのではなく、多くの方々の目に見えない愛のおかげで生かされていることを実感した一日になったようです。
愛に生きる
爽やかな5月になりました。この時期は、創立記念日を迎える準備の歌声が聞こえてくる毎日ですが、今年は新型コロナウイルス感染拡大予防の休校措置のために、歌声は聞こえてきません。
新型コロナウイルスが世界中に拡大し、報道番組では「中止したことはこれまでなかったこと・・・」という表現をよく耳にします。「ラ・カリタ」の歌声が校舎に響かない創立記念日は、初めてであり二度とこのようなことが起きないように祈りたいですね。
本修道会(幼き聖マリア修道会)が創立されたのは、1832年イタリアの北部ローベレという小さな町です。聖バルトロメア・カピタニオと聖ヴィンチェンツァ・ジェローザが、「あがない主の娘」として十字架上のイエスのように人々の救いのために「血を流すほどに愛する」生き方をする特徴の修道会を始めました。
現在、全世界の人々は新型コロナウイルス感染拡大で苦しんでいます。私たちの修道会の歴史を振り返ってみても、同様なことが起きていたことを、理事長Sr.フランチェスカからお話を伺いました。
修道会が創立された4年後の1836年、ローベレにコレラが大流行しました。聖バルトロメア・カピタニオが他界した後、聖ヴィンッチェンツァ・ジェローザと6人の若いシスターたちが、聖バルトロメア・カピタニオの遺志を引き継いで修道生活を始めていた時でした。
この時は、ローベレで小さな小学校を始めておりました。子どもたちの一部は寮生活をしていましたが、聖ヴィンチェンツァは子どもたちを自宅に帰らせ、空いたスペースを貧しくて病院へ行けない人々を収容し世話をしていました。コレラ患者の世話をする時に、世話をするシスターたちにも感染するリスクが高かったので、院長の聖ヴィンチェンツァは、
『私はこれから患者さんの世話をしに行きますが、感染の恐れがあるので皆さんは自由にしてください。』
と呼びかけました。が、6名のシスターたちは感染者の世話をし続けました。コレラが終息を迎えた時には、誰一人感染していませんでした。彼女たちの行動を揺るがないものにしたのは、イエスのみ言葉
「わたしの兄弟である最も小さい者の一人にしたことは、私にしてくれたことなのである。」(マタイ福音書25章40節)
でした。その生き方が多くの実を結び、今も私たちの心に受け継がれています。
今も感染者のそばで自分を顧みず献身的にお世話をしてくださっている医療従事者の方々のことを、思い起こしながら祈りましょう。そして、自分の命、他者の命の大切さをしっかり考え、今私たちが感染を拡大させないことを考えて行動できるようにいたしましょう。
高嶺山の実り
この高嶺山に本校が創立されて、今年で56回目の創立記念日を迎えました。
5月14日(火)は曇り空で涼しい気候で有難かったのですが、式典が終わるころは土砂降りになり、参列してくださった方々や帰宅する生徒たちには申し訳ない気持ちになりました(私の日頃の行いが悪かったからでしょうか?笑)。
今年は10連休があり授業数も少ない中、4月に入学した1年生はイタリア語の「ラ・カリタ」をしっかり歌ってくれました。
4部合唱の歌声は、日本から祈りとなって世界中のカピタニオの施設に届くような迫力がありました。
歌っていた生徒たちも世界のカピタニオファミリーの一員として、聖バルトロメア・カピタニオの偉業に感謝を捧げていました。
み言葉の祭儀の中で、理事長先生は聖女の生き方を次のように話してくださいました。
「聖バルトロメア・カピタニオはたくさんの友人を持っていて、その友人に励ましの手紙をよく書いていました。
その中でマリアンナに宛てた1827年1月12日の日付の手紙にこのように書かれていました。
『私は明日20歳になります。これまで神からいただいた恵みを私と共に感謝してください。そして私が神の愛から離れないように祈ってください。』
と言う短い文章から聖カピタニオの感謝する心が見られます。
また日記には次のように書かれています。
『私に対する神の愛が分かりました。永遠から私は限りない愛で愛されている。この素晴らしい体を造ってくださいました。私自身なんの値もないのに・・・・。』」
と理事長先生は聖カピタニオがすべてのことに感謝している様子を話してくださいました。
そして聖カピタニオにとって生きることは当たり前のことではなく、与えられた命、健康、才能、家族、教育などは、すべて神が与えてくださったものだから感謝しないではおられなかったのです、と当たり前のことが、実は当たり前ではないことを教えてくださいました。
自分の命に誠実に生きた聖バルトロメア・カピタニオの生き方は、まさに「一粒の麦」の生き方そのものでした。
神様は全ての人たちに、「あなたは私の愛する子」と呼びかけておられます。
そのみ言葉に応えるために聖女が行った行為は、自分の心の中の悪いものを取り除くことでした。
そのお陰で聖女の心は神の愛で満たされ、人々へと神の愛の奉仕を行うようになっていき、それが日本の地にも実りをもたらしてくれました。
私たち一人ひとりにも神様は、聖女と同じように語りかけてくださっています。
聖女の生き方から、その事実を教えてもらった創立記念日でした。
一粒の麦,海を越えて
5月12日(金)は本校創立54年を迎え、全校生徒、保護者、卒業生でお祝いをしました。
1部は「みことばの祭儀」、2部は昨年インド体験学習に参加した生徒たちによる報告会が行われました。
「みことばの祭儀」を司式してくださったのは、春日井教会主任司祭北向修一神父様です。
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のままである。死ねば、多くの実を結ぶ。」
(ヨハネ福音書12章24~26節)
の、み言葉を次のように話してくださいました。(抜粋)
「愛のない人生、花や実のつかない木のようなもの。」
(カリール・ジブラン)
木は、食べられる実をつけるのが最高で、食べられない実をつけるものなら、せめて花が美しいのがいい。
花すら咲かない木もたくさんあり、だからといって存在価値がないわけではないが、やはり人間から見ると、それは「寂しい」ということになります。
愛する人はいなくても生きられなくはないが、やはり愛する人と共に生きる幸福感は、豊かな人生にとって不可欠なものであるという意味です。
今日の聖書の箇所に出てくる麦は、神様が私たちに教えてくれる豊かな人生のたとえです。
現在の私たちにとっても一粒の麦とは、人間を生かすパンのもとになっています。
こんな小さな一粒の麦でさえ、たくさんの人を養い育てる力を持っているのです。
それならば神様がお創りになった人間にどれほどの可能性があるのでしょうか。
私たちは皆この地上に蒔かれた一粒の麦、自分の為だけに人生を使えば孤独なだけですが、隣人のために使えば大きな実を結ぶのです。
自分の殻を破って勇気を出して行ったことが、思わぬ結果を生むことがあります。
本校の修道会の創立者であるバルトロメアとジェローザは病気の人、刑務所にいる人など社会から疎外されている人たちに、自分ができる小さなことを誠実に愛の心を持って接していました。
弱い人、小さな人と寄り添いたいというその意志は海を越えてこの日本の地にまで及び、この聖カピタニオ女子高等学校においてたくさんの女子生徒にカリタ(神の愛)の精神を伝えています。
一粒の麦のように小さなことでも役に立ちたいという私たちの気持ちが、愛する心を育み、私たちの成長の中で、また隣人の中で豊かな実を結ぶのです。
北向神父様は、「一粒の麦」の生き方を具体的にお話をしてくださいました。
聖書に「私たちは神の似姿に創られている。」と書かれています。
私たちは一人で生きていけません。「共に生きる」ように神様は、私たちをお創りになりました。
人との関わりが希薄になっている現代、神様は創立記念日を通して「共に生きる喜び」を味わうように呼びかけておられるような気がしました。
一粒の麦が地に落ちて
今年の本校の創立記念日は、5月13日(金)に行ないました。第一部、瀬戸教会主任司祭インマヌエル・ビン神父様によるみ言葉の祭儀が執り行われました。
第二部は、3月にイタリア研修旅行に参加した生徒たちからの報告が行われました。
この日は、保護者の方々、卒業生、旧職員の先生が参加して祝ってくださり、生徒たちにとっても励みになったと思います。毎年合唱する「La Carità」の歌声は、聴く人たちに感動を与え、心を清めてくれます。
み言葉の祭儀の中で、理事長Sr.フランチェスカは次のようにお話をしてくださいました。
「カトリック教会は今年“いつくしみの大聖年”をお祝いしています。聖バルトロメア・カピタニオの生活の基礎になっていたのは、この“いつくしみ”です。
彼女は神の愛を体験し、人々にその愛を注ぎました。そして、修道会の会員に“いつくしみの業”を行うように伝えました。
“いつくしみ”という言葉を言いかえれば、隣人愛、思いやり、奉仕、親切、憐れみ、ゆるし等です。いつくしみの実践の場は、家庭から始まります。
聖バルトロメア・カピタニオの父親は、酒乱で暴れ家族を困らせていましたし、妹も気が強く我儘な性格でした。
そのような家族に対して、彼女は父の弱さを理解し父親の傍に寄り添ったりして、置かれている家庭の中で毎日実践的な愛の業を行いました。
また、病気の人を看病したり、刑務所に収容されている人たちに慰めの言葉をかけに行ったりしていました。
このような愛の実践を行うために彼女はいつも神に、「あなたからいただいた命、健康、才能、目、手、足全て、人に役立つように努めます。」と神のいつくしみで人々に接することができるようにと祈っていました。
私たちも実践的な愛を生きるように呼ばれています。」
創立記念のお祝いが終わった後、ある教員が保護者の方から、次のようなことを聞いたと報告してくださいました。
「娘はこの学校に入学させてもらい、1ケ月しかたっていませんが、本当に変わってきました。挨拶を言えるようになってきたのです。
“お弁当がおいしかった!ありがとう。”とか、朝“おはよう!”と挨拶をしてくれるようになったのです。」この生徒も、聖バルトロメア・カピタニオの生き方を家庭で実践していると思うと、まさしく一粒の麦がまかれて実を結んでいますね!
当日、聖カピタニオに捧げられたお花は、私たちの生活を支えてくださっている市役所・警察署・消防署・最寄駅等や中学校に感謝の気持ちと一緒に届けさせていただきました。
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