死者の月|聖カピタニオ女子高等学校|豊かな人間性を持つために

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愛の年輪

11月は死者の月としてカトリック教会は、亡くなった方々のためにお祈りを捧げています。

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今年も全校生徒と心を合わせて、本校に関わりのあった方々のご冥福をお祈りすることができました。

式を執り行ってくださった北向修一神父様(春日井教会主任)のお話を抜粋してご紹介します。

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「・・・本日、私たちは本校の亡くなられた先生、生徒、関係者、恩人のご冥福を祈るためにこの場所に与っています。この聖カピタニオ女子高等学校が今も存続して、私たちの学び舎となっているのはこの人たちのおかげです。

・・・『愛するとは、自分の幸せを他人の幸せに重ねることである。」と言ったのは、数学者であり哲学者としても有名なライプニッツです。この言葉を思い出す時、本校の初代校長である橋本先生を思い出します。

橋本先生は瀬戸教会の信徒でした。毎週日曜日のミサ後話をしたりしましたが、聖カピタニオ女子高等学校の初代校長と知ったのは、先生が寝たきりになられて自宅訪問をしたときでした。若い娘たちと一緒に過ごすのは、ついていくのは大変だったけれど、負けないようについていったこと。とても楽しかったことを話していました。自分の人生の中で年輪の輪のように刻まれているのだな。自分の人生と生徒の皆さんと重ね合わせているからこそ、病床にあっても楽しそうに語ったのだなぁと感じました。

 私たちは年を経るにつれ階段を上がるように高校1年生から高校3年生へステップアップしていきます。私たちは高校に学業をしに来ていますが、本校では愛徳を学ぶ機会もあります。その観点から言うならば年齢的にステップアップしても最終的に私たちの人生にしっかり残るものは、年齢のような地層のような積り育ったものです。つまり自分の幸せが自分以外の誰かと重ね合わさった歴史そのものなのでしょう。それを「」と称しても良いと思います。

 聖カピタニオ女子高等学校は初代校長先生がそうであったように、自分の人生の幸せを皆さんの人生の幸せと重ね合わせようとする人たちに支えられています。私たちは何時かふと振り返った時、愛しているなどという直接的な言葉を使わずとも、沢山の人たちの幸せに関われたことを嬉しく思うような人生を歩めるようになりたいものですね。・・・」

 

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校長先生から本校で働いてくださった教職員の方々のお名前を読み上げられましたが、毎年読み上げられる方々の名前が増えていくところに、先人たちの愛に生かされていることを感じさせられた今年の慰霊の集いでした。

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ガイドランナー

IMG_0638[1]コロナ禍のハローウイーンも無事終わり、11月に入りました。11月はカトリック教会では、「死者の月」として亡くなった方々のためにお祈りを捧げる月です。

 

 

IMG_0633[1]本校も各クラスの慰霊祭を終え、11月4日(木)に全校で慰霊の集いを行いました。

理事長先生から創立58年間、本校に携わってくださった教職員、在校中に亡くなられた生徒の皆さんの名前が読み上げられました。

その名前に毎年数名ずつ加えられていくのを知ると、本校の歴史を感じますね。

 

 

例年のように、春日井教会の主任司祭、北向修一神父様にみ言葉の祭儀を執り行っていただきました。

その中のお話を抜粋いたします。

 

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「・・・さて、コロナ禍の中で私たちに楽しい時間と希望を与えてくれたオリンピックとパラリンピックを覚えているでしょうか。

私は道下選手と二人の伴走者の走りが一番印象に残っています。

この競技の鍵となる伴走者(ガイドランナー)のルールが3つあります。

このルールに基づきランナーがゴールに到達するまで一心同体でサポートします。

アドバイスをしても、自分の力でゴールするように離れるでもなく近づくでもなく信頼というガイドに結ばれ、共に同じ道を走ります。

もし、私たちに最良なパートナーがいるとすれば、こんな人なのかなと感じました。

私たちに道を作ってくれた先人たちも大切な友だちや先生方、そして、神様と一緒にこの3年間を駆け抜けた方々です。

今度は同じように天国から神様と共に後輩である私たちの3年間を見守ってくださっています。

先に天国に旅立った先輩方、シスター方、先生方、恩人との絆というテザーを思い起こすために私たちは毎年慰霊祭を行っています。・・・」

 

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神父様のお話を聞きながら、私たち一人ひとりの1番のガイドランナーは、人となってこの世に来てくださったイエス・キリストだと再確認しました。

イエス・キリストは、ご自分のことを

「道、真理、命」

とおっしゃています(ヨハネ福音書14章6節)。

私たちの人生のガイドランナーとして、私たちがこの世での命を全うしていくべきところへと案内してくださる方が、いつも共に歩んでくださっていることを知ると、深い安心感と平和な心になれますね。

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慰霊の集い

??DSC_0007? カトリック教会では11月を、「死者の月」として、亡くなった方々のためにお祈りを捧げます。

 DSC_0316本校は10月29日(木)の全校朝礼で、本校に関わった教職員、在校中に亡くなった生徒たちのご冥福と感謝の祈りを捧げました。

 


 DSC_0312司式をしてくださったのは、瀬戸教会主任司祭インマヌエル・ビン神父様です。お話の中で「誰かが亡くなると、『亡』という漢字を使い、『無』という漢字を使わないのはなぜでしょうね。

 キリスト教において、死は神のみもとに帰り、永遠の命に与かることだから、亡くなった人の魂が永遠に安らかに憩うように祈りを捧げるのであって、人間の魂、霊魂は『無くなりません』。


 亡くなった方々が天国に入るためには、その霊魂があらゆる罪の穢れから清められ、神のみもとで永遠の幸福に与かることができるように、生きている私たちが死者のためにお祈りをし、逆に、死者が私たちのために神に執り成してくださっていることを信じています。

 

DSC_0313 生きている私たちにとって大切にしているのは、「心」です。私たちが気をつけないと「心」も亡くなってしまいます。

 いつ心が亡くなるかというと、「忘れてしまう」時、「忙しすぎる」時です。」と漢字を使いながら私たちに、本校の教育「愛をベースに豊かな心、深い知性を持つ女性の育成」を目指している学校だから、「愛をベースに豊かな心」を大切にして生きてほしいと話してくださいました。

 

 全校で慰霊の集いをする前に、宗教の時間を使い各クラスの慰霊祭を修道院のチャペルで行いました。1年生を担当している私は、8歳の男の子と5歳の男の子が亡くなる時に、家族に対してきちんと別れた実話を2つ紹介して「別れ方」についてお話をしました。

 私たちはいつか親しい人とこの世で別れなければなりません。その日がいつ来るか誰も分かりません、それは神様の領域ですね。私たちはこの世で限られた命を生きています。

 いつ親しい人との別れが来るかもしれませんが、「ごめんなさい」と「ありがとう」だけは、後悔しないように相手にいつも伝えておきたい言葉ですね。

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いのちの繋がり

ローマカトリック教会では、11月は「死者の月」で特に亡くなった方々のことを思い出し、お祈りを捧げる月です。本校は一足早く、本校に関わってくださった教職員、在校中に亡くなった生徒の皆さんの永遠の安息を、今日全校生徒と教職員心を合わせてお祈りしました。司式をしてくださった春日井教会主任司祭、北向修一神父様がお祈りを捧げ、次のようにお話をしてくださいました。(抜粋)

「ミッション系の学校は人の死に対して神様が関わってくださり、死後も安らかに憩っていることを大切に思っています。ですから私たちの一員である学校に関わる全ての人に対して追悼の式を執り行っています。追悼式は私たち自身がその一員であることを自覚する場でもあります。・・・時々葬儀の場で子どもを葬儀に参列させるか否かを問われることがあります。この子は小さいから理解できないのではないか?長い式で我慢ができなくならないか?ショックが大きいから参列させない方がいいのではないかという意見です。もちろん、子どもの発達の度合いによって違うのですが、子ども個人の体験ではなく、子どもと一緒に死について考えてみようという方が大切なことだと思います。」

と言ってから、お母さんが亡くなったことを男の子に告げず、お母さんは旅に出て帰ってこないと言ったために、男の子は苦しんだというお話をしてくださいました。

「・・・いつの日か子どもを産み育てたり、教えたりするであろう私たちが悲しみや喪失感について一緒に考える時が必ずやってきます。死者について追悼する心も学業同様大切なことだと私は感じています。人の繋がりを切ることなく、より強固なものにできることを学べる場は本当に貴重なものです。追悼する気持ちは、そんな人間らしい心を育ててくれるものです。エマソンという人の日記に『悲しみはすべての人に、子どもの心を取り戻してくれる』という一節があります。繋がりがあるからこそ、人は悲しみ、子どものような気持ちを出せるのです。・・・・追悼式は天国に旅立ったとしても、神様が人と人との絆を結び合わせてくださる大切な時間です。・・・・血の繋がった家族ではないかもしれないけれど、同じカピタニオの精神を学んだ兄弟姉妹です。一粒の麦のようにひっそりとこの学校のために力を尽くしてくださった方々を、後輩である私たちが少しでも繋がりを感じ祈って下さったら、きっと天国でたくさんの喜びが生まれると思います。・・・・」

今日の日を迎える前に、各クラスで慰霊祭を行いました。チャペルから出てくる生徒たちの目に、涙が光っていました。神父様のおっしゃったとおり、子どものような素直な心になり「生きる意味」について考える時間になったことでしょうね。

 

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「命」のリレー

11月は「死者の月」といって、この世から御父の元で永遠の命に与かっている人々のことを思い出しお祈りをします。本校でもそれにちなみ、宗教の時間に修道院チャペルで、クラス単位で慰霊祭を行いました。チャペルに入る前に、まず服装を整え亡くなった方々に礼を尽くします。いつもと違う雰囲気に生徒たちも緊張気味!厳かな音楽が流れる中、入堂。慰霊祭が始まります。今、私たちが生きているという事は、両親から命をいただき、両親はその両親から、その両親はそのまた両親からと、どこまでも遡っていくことができます。そうして自分の命を遡っていくと、自分の存在の重さに気づきます。まさしく「命のリレー」ですね。だから、今生きている私たち一人ひとりには、自分の前に生きた方々に感謝を述べ、いただいた自分の命をしっかり生きて、次の人にバトンタッチする使命が与えられているということも理解されるのです。この時間の生徒たちは、真剣な表情で目にうっすらと涙をため、亡くなった方々のご冥福をお祈りしました。

 

25日(木)の全校朝礼の際、瀬戸カトリック教会主任の北向修一神父様の司式で、学園に関係のある方々のご冥福をお祈りする「み言葉の祭儀」を執り行いました。その中で神父様は生徒たちに「母とおばあちゃんの祈り」というタイトルで、祈ることによって私たちの心は母やおばあちゃんのような優しい心に育つことを、次のように話(抜粋)をしてくださいました。

 

 

「人は産まれた頃に親を認識し、友達ができ、仕事仲間が増えていきます。それと同時に年齢を重ねれば重ねるほど、見送る人たちも増えていきます。不幸にして肉親を亡くしたり、友達を亡くした生徒さんもいらっしゃることでしょう。遠い親戚であればそんなに簡単に心を込めて祈ったりできないものです。しかし、自分に深く関わった人は離れ離れになったとしても、また会いたい・話したいって思うのが人間です。そんな気持ちを知っている人は同じように悲しんでいる人がいたら、一緒に祈ってあげられずにはいられない。たとえ同じ境遇でなくても、祈ってあげたいと思ったらそれでいいのです。私の教会でもそのように祈る「おばあちゃん」の姿をよく見かけます。「おじいちゃん」より「おばあちゃん」の方が多いように思います。子どもの頃、私の家では「おばあちゃん」が毎日仏壇の前で祈っていました。このように昔から女性たちは祈ってきたのです。祈るということは、私たちの中の良きお母さん・おばあちゃんのような抱擁感あふれる優しい心を、養っているのかもしれませんね。」とお話をされ、その良きおばあちゃん的な存在であった故シスター・ジュゼッピーナ・ガザニガ(前理事長)と出会った生徒のお話をなさいました。シスターがどれほど生徒たちのために祈ってきたか、そして今も天国で祈り続けていることを話され、「マリアに倣うものは同じように、母のように・おばあちゃんのようにたくさんの人のために共に祈る存在となります。私たちもマリアに倣い、共に祈ることで死者を悼み、たくさんの人のために祈る心を養っていただくよう祈ってまいりましょう。」とお話を終わられました。その後、理事長先生から、本学園に関わった教職員、在校中に亡くなった生徒の名前が読み上げられ、カリタスホームに集っているみんなで心を合わせてご冥福をお祈りいたしました。

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