murate|聖カピタニオ女子高等学校|校長ブログ

「murate」 が執筆した記事

【朝礼の話①】愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

パンジー

校内のいたるところにパンジーが咲いています。

 今日は一つの名言を紹介します。この言葉だけでも覚えてください。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉です。ビスマルクという人が言った言葉とされています。

◇愚者は経験に学ぶ◇

 「愚者」は愚かな者、賢者は賢い者ということです。「愚かな者は経験から学ぶ」というと少し違和感がありますね。経験から学ぶことが大切なことは間違いありません。おそらくこの言葉の真意は「愚かな者は自分の経験からしか学ばない、自分の経験だけを頼りにものを考える」ということです。

◇賢者は歴史に学ぶ◇

 「賢い者は歴史に学ぶ」、この「歴史」は広い意味での歴史です。「歴史」=「人の経験、他者の経験」と置き換えると分りやすいです。「賢い者は、自分の経験だけに頼らず、他者の経験をも取り入れてものを考える」ということだと思います。なぜならどんなに頑張っても一人の人間が経験できることは限られています。謙虚に他者の経験をも参考にした方がいいからです。

◇「聞くこと」と「読むこと」の大切さ

 では「他者の経験」はどのように学ぶか。二つあります。一つは「聞くこと」。できるだけ沢山の人と出会い、その人の経験やそこから導き出された考えを「聞く」ことがまず一つ。ただ何となく聞くのではありません。そこから何かを必死に学ぼうと耳を傾けることです。もう一つは「読むこと」。できるだけ沢山の人が書いた文章や本を「読む」こと。そこにはその人が一生をかけて辿り着いた考え方や生き方などの知恵がいっぱい詰まっています。

 「他者の経験」は「聞くこと」「読むこと」によって学べます。「聞くこと」「読むこと」を大切にしない人の「話す」「書く」内容はどうしても浅くなります。なぜなら自分の経験の範囲内でしか物を考えることができないからです。

◇読書週間◇

 さて6月13日から一週間、読書週間が予定されています。この目的は読書の大切さを思い起こす、特に普段あまり本を読まない人には本を読むきっかけにしてほしいというものです。「読書体験」という言葉があるように読書を通して得た他者の経験も、皆さんの貴重な経験の一つとなっていきます。皆さんの経験を広げる、よい本との出会いがあることを願っています。

 カピタニオのHPに私の経験の中から得たおススメの本を紹介していますので、よかったら参考にしてください。

校長 村手元樹

*2022.5.26 全校朝礼

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「置かれた場所で咲きなさい」という言葉の深い意味

MicrosoftTeams-image (21) カピタニオ像前のマーガレットです。

 以前、このブログでSr.渡辺和子の『置かれた場所で咲きなさい』という本を紹介しました。4月13日の新入生オリエンテーションの折にもこの本に触れ、このタイトルの意味について一緒に考えました。その時にした話をダイジェストで紹介します。

◇「置かれた場所」は受身表現(受動態)◇

 このタイトルはSr.渡辺が本当に辛かった時に、ある神父様から渡された英語の詩の一節だそうです。英詩を直訳すると「神様が私を植えた場所」となりますが、「置かれた場所」という訳は絶妙だと思います。「置かれた」は受身(受動態)です。「I was born.」(私は生まれた)も受身です。自分が自分の意思ではなく(あるいは自分の意思だけではなく)、たとえ神と呼ばなくても何か大きな力によってそこに存在しているというのは人生の真理です。だから私がここにいるのはある意味、自分(だけ)の責任ではないと言えます。いつの間にか人間としてこの世に存在し、日本に生まれ、いま愛知県のこの学校にいる、それはまさに「置かれた場所」です。

◇「咲きなさい」は能動態◇

 しかしこのタイトルは文の後半で「咲きなさい」と能動態に転じます。つまり今私がこの場所にいるのは自分の責任でないかもしれない。でもそれを今度は自分の責任として引き受けて能動的に生きるというのが「咲きなさい」が意味するところだと私は思います。「自分の人生を引き受ける」ことは「自己を肯定する」ことです。日本の若者は自己肯定感が低いとよく指摘され、社会的に重要な課題となっています。

◇「置かれた場所」で咲かないといけないのか?◇

 このような表面的な批判が本に対してあったようです。でもSr.渡辺はそんなことを言っているのではありません。もちろん現代社会では居場所を変更することは基本的に個人の自由です。どんな場所であっても我慢して生きなさいということではありません。実際シスターは文庫本の後書きで「どうしてもここでは咲けないと見極めたら、場所を変えたらいい。(そうして幸せになった人もいます)ただし、置かれた場所のせいにばかりして、自分が変わる努力をしなければ、決して幸せを得ることはできない」とおっしゃっています。明治になって居場所の自由を得た現代人がその代償として自分の居場所を失う孤独を味わうと予言したのは夏目漱石でした。

◇大切な出会いは受身から始まる◇

 実は「受身」ということにも大きな意味があるのです。自分がまだその価値を知らない、未知のものとの出会いは受動態であることが多いです。なぜなら人は価値の分からないものに自ら進んで取り組むことはあまりしません。たとえば授業も置かれた場所と言えるのですが、特に苦手科目や好きでない科目の授業は基本的に受身モードで辛い場所です。やらされている感が強く、時には「どうしてこんな科目をやる必要があるのか」と毒づいたりもします。なぜならその時はまだ価値が分からないからです。しかし後からその価値がわかるとその時はじめて自分の世界は未知のものに開かれ、広がっていくのです。

 だからその時の自分が必要と思うものだけに取り組むという姿勢では自分の殻は破れません。食べ物にたとえると「好きなものしか食べない」「食わず嫌い」という状態です。自分にとって将来本当に必要なものが何であるかはその時の自分には分からない。なぜなら自分の世界を広げてくれる未知のものは大抵自分の理解の外側にあるからです。

 未知のものに取り組まされることによって未知が既知に変わって初めてその必要性に気づくものです。お母さんが子供にニンジンを無理矢理食べさせるのは、子供には分かっていない価値を母親は分かっているからです。子供がニンジンの価値に気づくのは後になってからです。自分にとって本当に大切な出会いの多くは受身の状態から始まります。

村手元樹

 

 

 

 

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【おすすめBOOK②】モンゴメリ『赤毛のアン』―紹介その2

 

ラベンダー

正門わきのラベンダーの花も咲いています。

◇アンの想像力と表現力の豊かさ◇

 先回に引き続き、今回も『赤毛のアン』の魅力についてお話しします。今回はこの小説の読みどころをいくつか紹介します。

 まずアンの想像力と表現力の豊かさを楽しんでください。想像力とは、目の前の現象のみでものを見るのではなく、目に見えない背景や未来を感じ、信じる力です。冒頭の場面ですぐに豊かな想像力が垣間見えます。マシュウが駅に来ているはずの男の子を向かいに行くと、アンが汽車から降りてプラットホームで待っています。アンは初対面のマシュウに饒舌に話しかけます。

 「お目にかかれて、とてもうれしいわ。もう、迎えにきてくださらないのじゃないかと、心配になってきたもんで、どんなことが起こったのかしらって、いろいろ想像していたところだったのよ。もし今夜いらしてくださらなかったら、線路をおりて行って、あのまがり角のところの、あの大きな桜の木にのぼって、一晩暮らそうかと思ってたんです。あたし、ちっともこわくないし、月の光をあびて一面に白く咲いた桜の花の中で眠るなんて、すてきでしょうからね。小父さんもそう思わない? まるで大理石の広間にいるみたいだと想像できますもの、そうでしょう? それに今夜いらしてくださらなくても、明日の朝はきっと迎えにきてくださると思っていたのよ」

 11歳の女の子とは思えない、想像力、表現力ですね。こうした力はどのように養われたのでしょう。おそらくアンにとって孤独や現実の厳しさから身を守る術でもあったのでしょう。それに支えられながら生きて来たのです。またその力は孤児院での豊富な読書体験によって培われたものと言えます。

◇腹心の友、ダイアナ◇

 プリンス・エドワード島に来てから、アンの現実の世界は大きく広がります。学校に通うようになり、ダイアナという優しい親友もできます。この土地に来る以前は、想像の中で作り出した友だちしかいませんでした。想像上の友達に名前まで付けて、語りかけていました。ちなみにケティ・モーリスという友だちは鏡に映った自分、ヴィオレッタはこだまです。現実の友、ダイアナと一緒に遭遇するエピソードの数々も読み応え十分です。

◇ギルバートへの秘めた恋心◇

 同級生の男の子ギルバートとの関係も読みどころの一つです。「気になる恋の行方」がこの小説を読み進める推進力となります。「出会いが最悪」というのもラブストーリーの定番です。会ったその日にギルバートに一番のコンプレックスでもある赤毛のことをからかわれ、アンは激怒し、石盤をギルバートの頭に打ちおろし、石盤真っ二つという衝撃的な事件が起きます。ギルバートにとっては拙い愛情表現だったのですが、完全にアンの地雷を踏んでしまったわけです。ギルバートはすぐに反省し、アンに許しを請うのですが、アンは決して許さないと心に誓い、一切ギルバートと口をきかなくなります。

 しかしその後も二人は密かにお互いを意識し合いながら過ごします。いわゆる「気になる存在」状態です。勉強でも一二を争うライバル関係になります。アンは学校の様子をよくマシュウやマリラに話しますが、何度も「ギル…」と言いかけて「学校の男の子がね」などと言い直します。こういう心情表現は実に巧みです。こういう状態がずっと続きますが、その後どうなっていくかは読んでからのお楽しみです。

校長 村手元樹

 *モンゴメリ(村岡花子訳)『赤毛のアン』(新潮文庫、新版2008)

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【おすすめBOOK②】モンゴメリ『赤毛のアン』―紹介その1

MicrosoftTeams-image (13)

 校庭のいたるところにツツジが咲きました。

◇ともに歩み、成長する小説◇

 『赤毛のアン』はビルドゥングス・ロマンの傑作と言えます。ビルドゥングス・ロマンは、教養小説、自己形成小説、成長小説などと訳されます。一人の主人公がさまざまな体験を通して、内面的に成長していく小説です。女の子を主人公としたビルドゥングス・ロマンもいっぱいあります。そういった小説をたくさん読んで、主人公とともに歩み体験し考えることで、ともに成長してほしいと思っています。『赤毛のアン』はこうした小説の中でも最もおススメの一冊です。

◇作者のモンゴメリと訳者の村岡花子◇

 モンゴメリは1874年、カナダのプリンス・エドワードという美しい島で生れ育ちました。1908年『グリーン・ゲーブルズのアン』を出版し、たちまち世界的なベストセラーになります。1952年、村岡花子さんが英語から日本語に翻訳し、『赤毛のアン』という邦題を付けました。日本で海外以上のベストセラーになったのは、村岡さんの魅力的な翻訳に加え、この絶妙なタイトルの吸引力もあったと思います。ちなみに村岡さんをモデルにしたNHKの朝ドラ『花子とアン』が2014年に放映され、好評を博しました。

◇『赤毛のアン』の始まり◇

 物語はプリンス・エドワード島に暮らすマシュウとマリラという年老いた兄妹が畑仕事や力仕事を手伝ってくれる男の子を孤児院から引き取ろうと考えるところから始まります。手違いがあって孤児院から来たのはこの物語の主人公アン・シャーリーという十一歳の女の子でした。妹のマリラは一晩だけ泊めてすぐに送り返そうとします。この美しい島で暮らせると希望に胸を膨らませていたアンは一気に絶望の淵に立たされます。今まで親戚や施設をたらい回しにされていた子です。ここで気の弱い兄のマシュウはアンをこの家に置けないだろうかと気の強い妹に提案します。マリラは「置いとけませんね。あの子がわたしらに、何の役にたつというんです?」と突っぱねるのですが、マシュウは突然マシュウは思いがけないことを言い出します。

   「わしらのほうであの子になにか役にたつかもしれんよ」

 

◇役に立つとは?◇

 この発想の転換、何気にすごいと思いませんか? マリラが尋ねているのは「アンが私たちの役に立つか?」という質問なんですが、マシュウが答えているのは「私たちがアンの役に立つかも」という答えです。論理的にはおかしいですよね。案の定、マリラは「きっとあの子に魔法でもかけられたんだね。」と皮肉を言います。でもこれは無意識のうちにキリスト教の考え方の根幹を突いた言葉のように思います。人は何かの役に立つことによってのみ尊いのではなく、その存在自体が尊いという考え方です。この後、マリラは兄の意見を押し切り、孤児院との仲介役のスペンサー夫人のところへアンを返しに行きます。しかし、そこでのやりとりで結局自分の家へ連れ帰り、アンを引き取ることになるのですが、ここも感動的な場面です。読んでみてください。

◇無償の愛◇

 このように始まりからいきなり面白い! 一気に物語の世界に引き込まれてしまいます。アンは創造力豊かで、おしゃべりで、好奇心旺盛。一方、赤毛というコンプレックスや、身寄りがないという孤独も抱えています。愛情にも飢え、教育もしっかり受けてこなかった。この後、いろいろな失敗や挫折を繰返しながら、美しく感受性豊かな賢い女性へと成長していきます。

 その原動力はどこにあるかと言えば、やはりマシュウとマリラの無償の愛だと思います。「役に立つからいてもいいよ」ではなく、「たとえ何の役に立たなくても、あなたがここにいてほしい」という居場所がアンの自信の源となっているのです。

 本の最後の方で、マシュウがスペンサー夫人の間違いによってアンと出会えたことをつくづく感謝する場面があります。「あの子はわしらにとっては祝福だ。運がよかった、いや、神様の思し召しだ。」と。兄妹にとってもアンの存在自体がかけがえのない喜びとなったのです。

 今回紹介したのは「赤毛のアン」の魅力のほんの一部に過ぎません。まずは手に取ってみてください。

校長 村手元樹

*モンゴメリ(村岡花子訳)『赤毛のアン』(新潮文庫、新版2008)

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【おすすめBOOK①】Sr.渡辺和子『置かれた場所で咲きなさい』

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校庭に花水木も咲きました。

本との出会い

 高校時代によい本とたくさん出会ってほしいと私は思っています。素敵な人との出会いと同じように、良い本との出会いも自分の世界を広げ、人生を豊かにしてくれます。読書家としても知られる上皇后の美智子さまは、子供時代の読書が自分に「根っこ」と「翼」を与えてくれたとおっしゃっています(*)。ちなみに美智子さまは青年期をカトリック学校で過ごされました。私が出会い、心に残った本を紹介していきたいと思っています。

Sr.渡辺和子

 今回紹介する本の著者である渡辺和子さんも青年期をカトリックの学校で過ごし、洗礼を受けた後、岡山にあるカトリックの女子大学で長く学長を務められた方です。豊かな教養、さまざまな出会いや辛い経験の中から得た「知恵」は、私たちの人生や日々の生活について多くの示唆を与えてくれます。本校にもお話に来ていただいたこともあります。お亡くなりになられましたが、私たちはいまもSr.渡辺和子の多くの著作物からその知恵に触れることができます。私は最近、三十年以上前に発刊された『渡辺和子著作集』(全五巻)を入手しました。

『置かれた場所で咲きなさい』

 この本はSr.渡辺和子が85歳の時(2012)に出版されました。まさに長く貴い人生で得たエッセンスが一冊に詰まった贅沢な本だと思います。「老人が一人亡くなることは、図書館が一つ亡くなるに等しい」という諺がアフリカにあるそうですが、まさにそれを実感します。多くの人々の共感を得て、現在300万部を越えるベストセラーとなっています。短いお話からなるエッセイ集なので、思いついた時にどこから開いても繰り返し読めます。一章読んでは心の中で温めるスロー・リーディングに適した本です。

王さまのごめいれい

 もちろんSr.渡辺の体験談も参考になりますが、シスターが出会い、本に引用されている珠玉の言葉の数々も心に沁みます。その言葉と出会ってよかった!という気持ちになります。すぐれた先人たちの金言や詩のほかに、シスターの母の言葉や小学生が作った詩なども紹介されています。小学6年生の詩はこんな詩です。

   「王さまのごめいれい」

   といって、バケツの中へ手を入れる

   「王さまって、だれ?」

   「私の心のこと」

 寒い朝、ぞうきんをゆすぐ。冷たい水の入ったバケツに手をいれなければならない。こんな時、誰しも心の中で「いやだなあ」と思う気持ちと「でもしないといけない」という気持ちとの葛藤があります。この詩に対してシスターは次のようにコメントしています。

   実は、私たち一人ひとりの心の中にも、

   この「王さま」は住んでおられるのです。

   ためらっている私たちに、 善いことを

   「しなさいよ」とすすめ、悪いことを

   「してはいけません」と制止していて

   くださるのです。

 カピタニオの宗教の授業などで「良心の声」と生徒たちに伝えているのは、たぶんこの王様と同一人物だと思います。

校長 村手元樹

 

*講演「子供の本を通しての平和―子供時代の読書の思い出」(宮内庁のHPに全文記載)

渡辺和子『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎、2012)単行本

渡辺和子『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎文庫、2017)解説や後書きなどが付いています。

 

 

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