エッセイ|聖カピタニオ女子高等学校|校長ブログ

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世は定め無きこそいみじけれ ~2022年を振り返って~

山茶花 校庭の山茶花

 2022年も残すところ、あと僅かとなりました。皆様にとって今年一年はどんな年だったでしょうか。本校においては文字通りウィズコロナの年でした。安全第一は勿論ですが、大切な高校時代です。さまざまな体験を通して感じたり考えたりしてもらいたいことがたくさんあります。よい思い出も作ってもらいたい。このような思いを抱えつつ2020年、2021年と過ごしてきました。

◇ウィズコロナの年◇

  今年は、幸い社会情勢の変化に伴い、制約は多いもののコロナ禍以来できなかったことが徐々にできる状況になってきたことは嬉しい限りです。まず全校朝礼もカリタスホームで行い、全校で祈る機会に恵まれました。4月には3年生が修学旅行に代わる宿泊旅行に行き、何とか旧友と寝食を共にする体験ができました。5月の創立記念日では全校生徒の歌声が久々にカリタスホームに戻ってきました。2019年12月のハレルヤコーラス以来の全校での合唱に目頭が熱くなりました。つま恋リゾートでの6月の修養会も三年ぶりでした。7月には2年生のオーストラリア短期留学も半年遅れて実施できました。9月には有名なミュージカル「キャッツ」を全校で観劇し、感動を共有しました。学園祭では三年ぶりにクラス展示を行い、各クラスで探究したことを分かち合う体験ができました。また全校生徒でお互いの舞台発表を観覧し合い、一体となって楽しみ、盛り上がりました。体育祭は全校がグラウンドに会し、青春の汗を流しました。感染対策で3年生のみでしたが、学園祭と体育祭の様子を保護者の方と三年ぶりに共有できたのもありがたいことでした。11月には三年ぶりに修学旅行を実施でき、沖縄で心に残る体験をしました。

◇コロナ禍と無常◇

 12月になり、待降節の期間を通して自分たちが楽しむだけでなく、隣人と喜びを分かち合ったり、世界の人々の幸せを祈ったりすることに真摯に取り組み、クリスマス会も無事行うことができました。カトリック学校独自の行事にはじめて3年生の保護者の方にご参加いただけると心待ちにしておりましたが、コロナの第8波が到来し、叶わなかったことは誠に残念なことです。コロナ禍は、この世の中が無常であること、人間が本来、予想や制御のできない自然の変化の中で生きる存在であることを思い出させてくれました。昔の人はこの世が無常であることを覚悟し、日々それに対応し、希望を持って、その制約の中に少しでも豊かに生きる術を探っていました。むしろ平坦でない、紆余曲折のこの世のあり方にこそ人生の素晴らしさがある(*『徒然草』第七段「世は定め無きこそいみじけれ」)としたのは兼好法師です。

◇人生にトキメキを◇

 大人になるとあっという間に一年が過ぎると言います。その理由をチコちゃんは「人生にトキメキがなくなるから」と答えていました。私事ですが、今年は時の経つのが幾分ゆっくりだった気がします。それは今年、生徒の皆さんとともに、コロナ禍の困難の中、さまざまなことをルーティンとしてではなく新たな気持ちで行ってきたからかもしれません。

 来る年も皆様の上に神様の豊かな恵みがありますように。

                                         校長 村手元樹

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「置かれた場所で咲きなさい」という言葉の深い意味

MicrosoftTeams-image (21) カピタニオ像前のマーガレットです。

 以前、このブログでSr.渡辺和子の『置かれた場所で咲きなさい』という本を紹介しました。4月13日の新入生オリエンテーションの折にもこの本に触れ、このタイトルの意味について一緒に考えました。その時にした話をダイジェストで紹介します。

◇「置かれた場所」は受身表現(受動態)◇

 このタイトルはSr.渡辺が本当に辛かった時に、ある神父様から渡された英語の詩の一節だそうです。英詩を直訳すると「神様が私を植えた場所」となりますが、「置かれた場所」という訳は絶妙だと思います。「置かれた」は受身(受動態)です。「I was born.」(私は生まれた)も受身です。自分が自分の意思ではなく(あるいは自分の意思だけではなく)、たとえ神と呼ばなくても何か大きな力によってそこに存在しているというのは人生の真理です。だから私がここにいるのはある意味、自分(だけ)の責任ではないと言えます。いつの間にか人間としてこの世に存在し、日本に生まれ、いま愛知県のこの学校にいる、それはまさに「置かれた場所」です。

◇「咲きなさい」は能動態◇

 しかしこのタイトルは文の後半で「咲きなさい」と能動態に転じます。つまり今私がこの場所にいるのは自分の責任でないかもしれない。でもそれを今度は自分の責任として引き受けて能動的に生きるというのが「咲きなさい」が意味するところだと私は思います。「自分の人生を引き受ける」ことは「自己を肯定する」ことです。日本の若者は自己肯定感が低いとよく指摘され、社会的に重要な課題となっています。

◇「置かれた場所」で咲かないといけないのか?◇

 このような表面的な批判が本に対してあったようです。でもSr.渡辺はそんなことを言っているのではありません。もちろん現代社会では居場所を変更することは基本的に個人の自由です。どんな場所であっても我慢して生きなさいということではありません。実際シスターは文庫本の後書きで「どうしてもここでは咲けないと見極めたら、場所を変えたらいい。(そうして幸せになった人もいます)ただし、置かれた場所のせいにばかりして、自分が変わる努力をしなければ、決して幸せを得ることはできない」とおっしゃっています。明治になって居場所の自由を得た現代人がその代償として自分の居場所を失う孤独を味わうと予言したのは夏目漱石でした。

◇大切な出会いは受身から始まる◇

 実は「受身」ということにも大きな意味があるのです。自分がまだその価値を知らない、未知のものとの出会いは受動態であることが多いです。なぜなら人は価値の分からないものに自ら進んで取り組むことはあまりしません。たとえば授業も置かれた場所と言えるのですが、特に苦手科目や好きでない科目の授業は基本的に受身モードで辛い場所です。やらされている感が強く、時には「どうしてこんな科目をやる必要があるのか」と毒づいたりもします。なぜならその時はまだ価値が分からないからです。しかし後からその価値がわかるとその時はじめて自分の世界は未知のものに開かれ、広がっていくのです。

 だからその時の自分が必要と思うものだけに取り組むという姿勢では自分の殻は破れません。食べ物にたとえると「好きなものしか食べない」「食わず嫌い」という状態です。自分にとって将来本当に必要なものが何であるかはその時の自分には分からない。なぜなら自分の世界を広げてくれる未知のものは大抵自分の理解の外側にあるからです。

 未知のものに取り組まされることによって未知が既知に変わって初めてその必要性に気づくものです。お母さんが子供にニンジンを無理矢理食べさせるのは、子供には分かっていない価値を母親は分かっているからです。子供がニンジンの価値に気づくのは後になってからです。自分にとって本当に大切な出会いの多くは受身の状態から始まります。

村手元樹

 

 

 

 

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スモール・スクール スロー・スクール

MicrosoftTeams-image (11)校庭に山吹の花が例年より、たくさん咲きました。

 聖カピタニオ女子高等学校はどんな学校か?と考える時、私は「スモール・スクール、スロー・スクール」という言葉を思い浮かべます。名が体を表すように本校は「カトリック学校」「女子校」という二つの大きな特色を持っています。「スモール・スクール、スロー・スクール」という理念はこの二つの特色に端を発したものに他なりません。

スモール・スクール

 「スモール・スクール」(小さな学校)。カトリック学校の多くがそうであるように創立以来、小規模な学校づくりを目指してきました。目の行き届く、少人数による家庭的な雰囲気こそ、教育の原点であり、一人ひとりを大切にし、その個性が伸ばせると考えるからです。

 本校が創立された昭和38年は高度経済成長のただ中でした。大量生産・大量消費、大規模な開発が進み、「大きいことはいいことだ」が流行語となりました。このような時代に小ささのメリットを重視したことは、創立に携わったシスター方の慧眼の賜物と言えます。岡倉天心は名著『茶の本』(1906)の中で茶道の小さな世界に大きく深遠な人間性が宿っていることに触れ、「大きなものの小ささ」「小さなものの大きさ」を説きました。聖カピタニオ女子高等学校も雑踏のような環境ではなく、心安まる、静かで小じんまりした日常の中で大きく深遠な人間性を育む場所でありたいと考えているのです。

スロー・スクール

 「スロー・スクール」は「スロー・フード」から連想した言葉です。スロー・フードはファースト・フード(fast food)に対して食生活を見直す運動です。促成栽培のようなやり方でなく、落ち着いた環境で生徒たちがゆっくりじっくり成長していける学校という意味で私は「スロー・スクール」という言葉を使っています。「すぐ役に立つ勉強はすぐに役に立たなくなる」と言われます。受験など目先の必要性だけに囚われず、生涯にわたって「人生の礎となる知恵と教養」を身につけることを目指します。

 女子校であることも「スロー・スクール」と関連性があります。ジェンダーを意識してしまいがちな共学と違い、性別の縛りから解放され異性の目を気にせず自分と向き合える期間は貴重な経験です。またカトリック学校として本校では毎日、朝と帰りに祈りの時間があり、心落ち着けて静かに自分を振り返る時間です。宗教の授業や行事にも取り組みます。巷では昨今、都会の喧噪から離れ、休日に癒やしの時間と空間を求める、神社仏閣めぐりや坐禅体験といったツアーが好評を博しています。3年間を宗教的な雰囲気の中で過ごすことはもっと貴重な体験となり得るでしょう。

校長 村手元樹

 

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