朝礼の話|聖カピタニオ女子高等学校|校長ブログ

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【朝礼の話⑨】「最も大いなるものは愛」

乙女椿

マリア像の脇に乙女椿が咲きました。花言葉は「控えめな愛」です。

◇少女小説のヒロインの3つ目の共通点◇

 先回先々回としてきた話の最終回です。『赤毛のアン』や『小公女』など、女の子の成長を描いた古典的な成長小説の主人公には特に重要な三つの共通する長所があると私は考えています。これはそれを書いた女性作家たちが自分の人生を通して学んだ生き方を読者たちに伝えようとしたメッセージです。またそういう生き方をすることで幸せな人生を歩んでほしいという願いでもあります。「賢さ」、精神的な「強さ」についてお話ししてきましたが、最後の三つ目は、「優しさ」です。「思いやりがある」という意味の「優しさ」です。形容詞で言うと「優しさ」という表現になりますが、「愛の心を豊かに持っている」と言い換えた方がはっきりするかもしれません。

◇主人公に「みなしご(孤児)」が多いのはなぜ?◇

 これらの小説の主人公は「みなしご」であることが多いのですが、それはなぜでしょう。時代状況を反映しているとか諸説ありますが、私はこれらの小説のテーマが愛だからだと思います。愛の尊さを強調するため先ず愛のない状態を設定する必要があったのだと思います。親の愛を知らずに育った主人公が愛をつかんで幸せになるという展開です。

◇愛の心を育む必要条件◇

 主人公が愛の心を育むには二つの必要条件があります。一つは愛されること。主人公に親以外の愛の手が差し伸べられ、愛されることによって彼女たちは人を愛することを覚えていきます。もう一つ大切な条件は、他者を愛するためには自分自身を先ず愛することが必要だということです。

◇「愛の実践」◇

 宗教の授業で何十年も継続している「愛の実践」の発表があります。とても素晴らしい取り組みだと私は常々思っています。というのは、聖書に「最も大いなるものは愛」(コリント人への第一の手紙)とありますが、愛というものはもちろん目に見えないし、完全に言語化することも難しいわけです。だから具体的な実体験を通して、自分自身がうれしいと感じたことを人に行うことを繰り返しながら、徐々にイメージを深めて明確にしていくしかないもののように思います。

 また、実体験するほかにも、愛をテーマにした小説を読んで、追体験することで「愛する」とはどういうことかの理解を深めることもできます。そういった小説もできるだけ沢山皆さんに読んでほしいと思っています。

 以上、3回にわたってお届けしてきました話はもちろん単なる文学論ではありません。皆さんにも「賢さ」「強さ」「優しさ」を備えた人になってもらいたいというメッセージです。

校長 村手元樹

*2023.2.16 全校朝礼

*三部作の前の話も併せてお読みください。

【朝礼の話⑦】「賢い」ってどういうことだろう?|聖カピタニオ女子高等学校|校長ブログ (st-capitanio.ed.jp)

【朝礼の話⑧】「私は弱いときにこそ強いからです。」|聖カピタニオ女子高等学校|校長ブログ (st-capitanio.ed.jp)

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【朝礼の話⑧】「私は弱いときにこそ強いからです。」

山茶花2

垣根から空に伸びあがった山茶花

◇少女小説のヒロインの2番目の共通点◇

 先回の朝礼で『赤毛のアン』や『小公女』などの古典的な少女小説の主人公には特に学ぶべき三つの共通する長所があって、その一つ「賢さ」についてお話ししました。今日は二つ目の共通点の話をします。それは「強さ」です。もちろん体力ではなくて精神的に「強い」という意味です。主人公の女の子たちは皆、強い心を持っています。

◇「強さ」とは?◇

 精神的な強さと言ってもいろいろありますが、その中でも大切なのは「粘り強い」「根気強い」、たとえすぐに成果がでなくても継続する強さ、サステナブルな強さです。もう一つ大切なのは、失敗してもくじけずに立ち直るレジリエントな強さです。いわゆる雑草のような強さです。

◇「強い」の反対は「弱い」ではない◇

 今日私が一番言いたいことは「強い」の反対は「弱い」ではないことです。むしろ自分の弱さを認め、肯定するところから真の強さは生まれます。聖パウロは「コリント人への第二の手紙」の中で「私は自分の弱さを誇ることにします。…私は弱いときにこそ強いからです。」と言っています。この言葉には聖書的な深い意味がありますが、一般的にも言えることだと思います。先回、本当に賢い人は自分は賢くないという自覚をしている人だ(無知の知)と言いましたが、それと同様に本当に強い人は自分の弱さを自覚しているものです。

◇自分の弱さを知ること◇

 人間はもともと誰しも弱い存在です。自分一人の力では生きていくことはできないからです。今日の食事一つ取ってみても、生産者や食料を運ぶ人、調理する人がいなければ食べることはできません。お互い他の人の力を借りて助け合って生きているのです。自分の弱さを知ることは、自分が他者の力に支えられていること、それによって初めて自分が力強く立っていられることを認識することでもあります。

 日本語に「心が強い」と書いて「心強い」という言葉があります。「私、心強いです」という時、「私は心が強いです」という自慢ではありません。「あなたがいるおかげで私の心は強くなります」という具合に必ずそこに他者が想定されています。この言葉は強さの本質を表していると思います。

◇卒業生のことば◇

 こういうことはカピタニオ高校で皆さんに学んでもらいたいことでもあります。最後にある卒業生の言葉を紹介します。学校案内にも掲載されているのですが、学校に対する思いを語ってもらったインタビューの中での言葉です。

「私は今、東京で働いていますが、社会に出ると本当に多くの人と出会います。時には、お互いの考えが合わず自信を無くすこともありますが、自分と違う「他者」、そして他者と違う「自分」を素直に受け入れられるようになったのは、カピタニオで過ごした日々のおかげだと感じています。「気づき」を大切にしているこの学校で、私は自分の弱さや人のやさしさを知りました。そうした心の学びが、今の私の糧となっています。」

 今日のお話は以上です。

校長 村手元樹

*2023.2.9 全校朝礼

 

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【朝礼の話⑦】「賢い」ってどういうことだろう?

パンジー (2)

冬の寒さに負けずに咲く、地植えのパンジー(ルーチェ・ガーデン)

◇少女小説のヒロインの「賢さ」◇

    今日は「『賢い』ってどういうことだろう?」というお話をしたいと思います。

 女の子がさまざまな体験を通して、内面的に成長していく姿を描いた、優れた小説があります。例えば『赤毛のアン』や『小公女』、『足長おじさん』、『ハイジ』『愛の妖精』などです。このような小説から私たちは生き方を学ぶことができます。主人公にはいくつかの共通点があると思います。特に重要だと私が考える共通点が三つほどあります。その一つが「賢さ」です。

◇「賢さ」「wisdom」「sophia」◇

 「賢い」にもいろいろな意味がありますが、ここで言う「賢い」とは、「思慮深い」「知恵がある」という意味です。英語で言うとwise(ワイズ)という単語に相当します。wiseの名詞形はwisdom(ウィズダム)、「知恵」とか「思慮深さ」と訳します。Wisdomは、ギリシア語ではsophia(ソフィア)という言葉に相当します。例えば上智大学の上智は優れた知恵ということで、海外では「Sophia University」という名で通っています。欧米では女の子の名前にも「Sofia」はよく使われていて、日本だと知恵子さんに当たります。賢い子になるようにとの親の願いが込められているのだと思います。

◇「賢い」とは要するに◇

    さて「賢い」=「思慮深い」とは簡単に言うと考えが深い、浅くないということですが、では要するにどういうことでしょう。「考えが浅い」とは物事を一つの方向からしか見ない状態です。これが極端になると、一つの視点に偏る見方、つまり偏見となります。逆に「考えが深い」とは物事をいろいろな角度から見ることができるということだと思います。また、物事の、目に見えている部分だけでなく、目に見えない背景や本質を見極めることができるということです。

◇無知の知◇

    一つ大切なことがあります。それは「自分のことを賢いと思っている人はだいたい賢くない」ということです。まだまだ自分には知らないことがたくさんある、自分は今こう考えるけど、もっと別の考え方もあるかもしれない、「私は賢くなるための努力をしている途中です」というのが、本当の「賢い」という状態だと思います。そういうことを最初に言ったのはおそらくソクラテスという哲学者です。その考え方を端的に表したのが「無知の知」という有名な言葉です。あるいは最近では「不知の自覚」とも言うようです。

 私も皆さんに賢い人になってもらいたいという願いを持っています。

校長 村手元樹

*2023.1.26 全校朝礼

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【朝礼の話⑥】【おすすめBOOK⑤】 「かたづけ」の力 ―『中高生のための「かたづけ」の本』―

シンビビューム

玄関でお客様をお迎えするシンビジューム

◇歩みだす◇

 今月の朝礼の話のテーマは「歩みだす」ということなのですが、私は学生時代、試験勉強とか受験勉強とか自分にとって大きなイベントへの取り組みを開始する前に、部屋の掃除をするよう心掛けていました。すると不思議に何かが始まる、「歩みだす」という気分になります。

◇「かたづけ」は人生の大きな課題◇

 そこで今日は一冊の本を紹介します。『中高生のための「かたづけ」の本』という本です。岩波ジュニア新書として出版されています。私も片付けは得意ではなく、いつも苦労しています。日々の生活の中で「かたづけ」は大人にとっても大きな課題ですが、中高生にとっても意外と大切な課題ではないかと思います。

◇「かたづけ」は自分の今いる世界を変えること◇

 この本の中で一番印象深かった言葉は、「(かたづけとは)自分の思い通りに、自分の空間、時間、人生をつくり上げること」だという言葉です。一見大げさにも思えますが、確かに部屋を片付けるだけで、自分の力でその空間をすっきりとした気持ちのよい空間に変えることができます。

 この本に「かたづけ」ができないとどうなるかが書いてあります。①「時間を失う」、あのプリントどこ行ったっけとか「探す」時間はムダです。②「空間を失う」、ワークスペースが少なくなります。③人間関係を失う。返したつもりだった、人に借りたものが部屋のどこから出てくる、下手をすると信用を失ってしまいます。④⑤と知らず知らず失っているものはさらに列挙されています。

 「かたづけ」の作業では「分ける」(分類して整理する)ということがとても重要です。スーパーマーケットのように必要なものを必要な時にさっと取り出すことができれば、気持ちよく生活できます。具体的なかたづけのヒントもたくさん載っていますので、ぜひこの本を読んでみてください。

◇学習も「かたづけの力」が大切◇

 かたづけの力は、勉強でも重要です。というより勉強の大半は頭の整理だと言っても過言ではありません。頭の中に部屋があると想像してみてください。その部屋が雑然としていたら、覚えたことをすっと取り出すこともできません。心理学的にもそれは立証されています。忘れるのは頭の中から覚えたことが消えるのではなく、取り出せなくなった状態だということです。文章にしてみると自分の頭の中でモヤモヤしていたことが整理されるという経験もあると思います。頭の中にある考え(例えば雑然とした引き出しに入っている物)を一旦すべて「出す」→必要度や種類などの観点から「分ける」→必要なものを「選ぶ」、そうでないものは捨てて、→原稿用紙(引き出し)に「収める」。文章を書く手順は、この本にも書いてある、かたづけの手順(出す→分ける→選ぶ→収める)とまさに一緒なんです。

◇「分ける」=「分かる」◇

 私は定期試験の前に授業のノートとは別にテストノートを作っていました。ある先生も学生時代に同じことをしていたと聞きました。授業内容をもう一回まとめ直していたんですね。やみくもに頭の中にごちゃごちゃと入れるのではなく、整理整頓して入れていくということです。そうするとノートを作る段階である程度記憶できてしまい、定着度も高いのです。かたづけは時間がかかるけれどあとあと楽になるのと一緒で、このノート作りもそんな効果がありました。

 「分ける」と「分かる」は古語では同じ単語「分く」です。つまり「分ける」=「分かる」。分けて整理していくことによって物事を理解するのが人間の頭の仕組みとしてあるということを表わしています。かたづけの力を身につけると、快適に過ごすことができ、精神衛生上もよく、成績もアップすると思います。

校長 村手元樹

*2023.1.19 全校朝礼

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【朝礼の話⑤】加藤恵先生の思い出

校庭の金木犀

正門の脇の金木犀が満開

◇慰霊の集いで読み上げられる名前◇

 11月はカトリック教会では死者の月ということで、来週の木曜日に慰霊の集いが予定されています。毎年の慰霊の集いの中で「本校の関係者でお亡くなりになった方のお名前」が一人ひとり読み上げられます。その中には私がカピタニオに来る以前にいらっしゃった、一度も会ったことのない先生のお名前もたくさんあります。今ある学校の精神を作ったり繋いだりした、その方たちは過去の人ではなく、私たちの心の中で一緒に生きている人だなと私は思っています。

◇加藤恵先生のご葬儀で◇

 今日はその中のおひとり、私が新任時代からお世話になった英語の先生、加藤恵先生の話をしたいと思います。2019年の11月に突然の訃報を聞きました。カピタニオを定年退職され、十年ほどが経っていました。お葬式に参列した際、弟さんが最後、挨拶をされ、「姉の人生にとってカピタニオ高校は本当に大きな存在でした。」とおっしゃっていました。

◇カピタニオの第2回卒業生として◇

 恵先生はカピタニオの2回生です。足に障害を抱えていらっしゃって、ずいぶん辛い思いをされたと思います。中学の時にカピタニオというキリスト教の学校が出来たと聞いて、心の支えになるのではないかと思って入学したそうです。3年間先生たちには本当にお世話になったと恵先生はよく言っていました。

 恵先生は必死に勉強して南山大学の英米学科に進学します。当時はカトリック推薦とかもない時代です。大学時代の経験で私がよく聞かされたエピソードがあって、お葬式の時に弟さんも話されていました。大学の先生に出身高校を訊かれ、「聖カピタニオ女子高校」と答えた時に、新設校だったこともあって、大学の先生が「どこだね、その学校は? 聞いたこともないな」と言われた。恵先生は愛する母校をそんなふうに言われて悔しくてたまらなかったようです。

◇カピタニオの英語の先生として◇

 大学卒業後、恵先生は英語の教員としてカピタニオに戻ってきます。ここまでの話でたぶん優しい穏やかな先生を皆さんは想像したかもしれません。実はそうではありません。迫力があって豪快で口が少し悪い。今ならコンプライアンス的にアウトという言動もあった気がします。さっきの大学の先生の話をする時も「悔しかったですわ。」みたいではなく、「くそっ!と思った」と言っていました。

 特に英語の勉強に関しては本当に厳しくて、授業でも予習して臨まない生徒はいなかったですね。お葬式の時、弟さんが恵先生が自宅でテストの採点していた時の様子を話していました。答案に向かってよく怒っていて「〇〇さん、何でこの問題ができんのォ?」などと言っているので、弟さんが「そんなに言わなくても」と理由を訊くと「この子はもっとできる子なの。」と力説する。自分がご苦労された分、生徒が努力を惜しむことについて自分のことのように悔しかったんだと思います。若い頃は「このくらいでいいか。」と自分をセーブしてしまいがちなんです。そんな生徒たちの力を何とか引き上げよう、背中を押そうという情熱を持っていた、厳しくて優しい先生でした。

◇「ちびたち」に込められた思い◇

 恵先生は生徒の話をする時「生徒たち」と言わず、だいたい「ちびたち」と言ってました。幼い子供のことを親しみを込めていう「ちびっ子」のちびです。自分より背の高い高校生に「ちびたち」は変な気がしますが、何て言ったらいいか、子供でもあり、可愛い後輩でもあり、生徒でもある、未熟ゆえにこれから成長する、伸びしろがいっぱいある親愛なる存在という響きがこもっていました。

 慰霊の集いで読み上げられる一人ひとりの先生にそれぞれのカピタニオへの思いや物語があります。もちろん会ったこともない人だから自分とは関係ないよと言うこともできます。そういった歴史みたいなものから自分を切り離して生きることもできます。でも、そういうことを感じながら生きる人生の方がより豊かになるのではないかと私は思います。皆さんは、どうでしょうか。

校長 村手元樹

*2022.10.20 全校朝礼

 

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