「2022年09月」の記事
【朝礼の話③】キャッツ解説 ―令和4年度芸術鑑賞のご報告―
◇キャッツのあらすじ◇
今日は、先日皆さんと鑑賞したキャッツの内容についてお話します。ミュージカルは音楽、美術、文学などが融合した総合芸術ですが、今日は文学的な側面から私なりに感じたことを三つのポイントに絞って振り返ってみたいと思います。先ずあらすじを確認しておきます。「今夜は年に一度の特別な舞踏会。そこに集まったジェリクル・キャッツの中から、最も純粋な猫が一匹選ばれ、新しい人生を生きることを許される。果してその猫とは?」というのが大まかな筋です。
◇ポイント①「死と再生の物語」◇
ポイント①としてキャッツは「死と再生の物語」と言えます。孤独な娼婦猫グリザベラが、最後天に昇っていく姿、これは何を意味するでしょう? 死、天国に行く、成仏する、捉え方はいろいろ出来ますが、一つの終わりを意味します。同時に、再生、天国で暮らす、仏になる、転生など、始まりを意味しています。
この物語の時間設定が夜であることも重要です。一日が終わり、眠りに就き、新たな一日が始まる、私たち人間も日々、終わりと始まり、小さな死と再生を繰返しながら生きているのです。主題歌「メモリー」も「デイライト 夜明けとともに 新たな命を 日はもう昇る」と歌っています。ちなみにキャッツで効果的に使われている「月」も死と再生の象徴となっています。満ち欠けがあり、30日周期で始まりと終わりが繰り返されますからね。
◇ポイント②「祝祭の物語」◇
ポイント②、場面設定が「舞踏会」であることも大きな意味があります。舞踏会のような場を文学的には「祝祭空間」と呼んでいます。人生の節目、行事、儀式、具体的には入学式、卒業式、学園祭、結婚式などもそうです。その反対が普通の時、日常です。日本の文化では昔から「ハレ」と「ケ」という言葉で区別して来ました。晴れ舞台、晴れ着という言葉もありますね。
ジェリクル舞踏会は、ジェリクル・キャッツたちのこれまでの人生を照らし出し、夜明けとともに新しい日常が始まります。私たち人間世界の卒業式も高校生活を照らし出し、新たな生活が始まる祝祭の場です。文学的には祝祭も死と再生の象徴と解釈されます。私たちはハレとケを繰返しながら生きているのです。皆さんもいま学園祭が終わり、日常を送っていますが、来週には体育祭というハレが待っていて、それが終わるとまた日常が訪れます。
◇ポイント③「救済の物語」◇
最後のポイントはキャッツは「救済の物語」でもあるということです。グリザベラは、他の猫から蔑まれ、疎んじられる孤独な存在です。グリザベラが最後に歌う「メモリー」の、「お願い 私にさわって 私を抱いて 光とともに」という心の叫びのような歌声は皆さんも強く印象に残っていると思います。こう歌うと彼女を今まで遠ざけていた他の猫たちが近寄ってきてグリザベラの体を撫で、グリザベラは心の救いを得るわけですが、これは単なるスキンシップではなく、その人生に触れる、その人生を受け止め、抱きしめることを意味していると私は思います。ここで言う救済とは生きていてよかったという思いです。
救済というとマザー・テレサのことが思い浮かびます。マザーは「死を待つ人々の家」を作り、道端に倒れ、誰にも顧みられることなく孤独に死んでいく人々を家に連れて帰り、介抱しました。手を握り、「あなたは大切な人です。神様から愛されています。」とマザーが言うと、その人たちは微笑んで小さくサンキューと言って息を引き取ったそうです。
私たちも日々小さな救済をしたりされたりしています。奉仕活動で老人ホームに行った時、お年寄りが昔こんなことがあったよ、そうなんですね、そんなことがあったんですね、と話を聞いてあげて、その人生に触れることとか、友だちに励ましや慰めの声をかけるのも小さな救済かなと思います。
以上、私はこんなふうにキャッツを見ましたが、皆さんはどうでしょう。何かの参考になれば幸いです。
校長 村手元樹
*2022.9.22 全校朝礼(オンライン)
コロナ禍と青春 ―令和4年度2学期始業式のご報告―
真っ白になった本校舎
にわかに秋の気配が感じられるようになりました。9月1日、2学期の始業式を予定通り行うことができました。新型コロナウイルスが高止まりしているのに加えて、熱中症の心配もある状況のため、始業式を放送で実施しました。生徒の皆さんに次のような話をしましたので、ご紹介します。
◇真っ白になった本校舎◇
おはようございます。
いよいよ2学期となりました。皆さんにご不便をおかけしましたが、夏休みに行った本校舎の塗装工事が無事終わり、本校舎が見違えるように白くなりました。白は清潔感、新たな始まり・可能性をイメージさせる色です。新たな気持ちで頑張っていきましょう。
◇仙台育英高校野球部の監督の言葉◇
さて、この夏を振り返ってみると、私はいろいろ心に残る言葉に出会いました。そのうち、二つ皆さんと共有したいと思います。まず甲子園で東北勢初の優勝を果たした仙台育英高校の須江監督の優勝インタビューの言葉です。話題になったので、知っている人も多いと思います。「新型コロナウイルスの感染に翻弄され、それを乗り越えての優勝した3年生にどんな言葉をかけたいですか。」と質問され、「今の高校生活っていうのは、僕たち大人が過ごしてきた高校生活とは全く違うんです。青春って、すごく密なので。でもそういうことは全部ダメだ、ダメだと言われて。活動してても、どこかでストップがかかって、どこかでいつも止まってしまうような苦しい中で。でも本当にあきらめないでやってくれたこと、でもそれをさせてくれたのは僕たちだけじゃなくて、全国の高校生のみんなが本当にやってくれて。(中略)本当に、すべての高校生の努力のたまものが、ただただ最後、僕たちがここに立ったというだけなので、ぜひ全国の高校生に拍手してもらえたらなと思います。」という答えでした。
「全国の高校生」は野球をやっている高校生だけを指した言葉ではないと私は思います。皆さんもコロナ禍の中で勉強、部活、受験、行事などいろいろなことを頑張ってくれています。皆さんがボランティア活動を行った先からも「本当に助かりました」と感謝の言葉をいただきました。拍手を送りたい気持ちです。
◇青春は密◇
「青春は密」という言葉も印象的でした。自分の高校生活を振り返って果して密(充実)だっただろうか?と反省したんです。何事も当り前だと思ってありがたみも感じずただ毎日を何となく過ごしていたような気がします。
残念ながら人間は自分の生きる時代を選ぶことはできません。戦争中に青春時代を過ごした若者もいます。時代を嘆くより、その時代の中でどうすれば、より充実して生きられるのかを考えることの方がはるかに重要だと思います。
◇カピタニオの今年の卒業生の言葉◇
私がこの夏、心に残った言葉のもう一つは、本校を今年卒業した皆さんの先輩がオープンスクールで中学生に話してくれた言葉です。彼女も高校2年生3年生をコロナ禍の中で過ごしました。高校についていろいろ説明した最後に、卒業式の時にクラスの仲間と撮った写真をスライドで見せながら中学生にこのようなメッセージを伝えてくれました。「(~中学生の皆さんに一番伝えたいこと~)私が一番大切だと思うことは、誰とどんな環境で何を学ぶかだと思っています。私はこの高校で最高の友達と学んで、先生になんでも相談して、なんでも質問して、この高校でしか学べないことを学びました。私はこの高校時代が最高だったと心から思います。」
◇大切なのは、誰とどんな環境で何を学ぶかを意識すること◇
最高の高校時代だったと振り返ってくれて私は何か救われたような気持ちになりました。ただそれは「最高の高校時代だった」というより、彼女が「最高の高校時代にした」のだと思います。だからここに来れば誰でも最高の高校生活を送れるよと中学生に言っているわけでは全くありません。「なんでも相談した」という表現でその途上でいろんなことに悩み、壁にぶつかりながら歩んだ高校生活だったことが読み取れます。苦しみを伴わない最高の高校時代なんてないと思います。そもそも困難を乗り越えることがなかった高校生活は密とは言えません。そして彼女がなぜ最高の高校生活にできたかというと、「誰とどんな環境で何を学ぶか」を常に意識して高校生活を主体的に送ったからに他なりません。
私は彼女とそんなに接点はなかったのですが、受験の時、スクールバスの2便で帰ると決めて、放課後学習室で勉強して、先生に質問に来る姿もよく見かけました。いま自分がいる環境の中で、自分が何を誰とどうできるかを必死に模索していたことは容易に想像できます。
いろいろと不自由なことや苦労が多い毎日ですが、卒業の時に「いい高校時代だったな」と思えるように一つ一つ取り組んでいきましょう。
校長 村手元樹
始業式の夕方、美しい虹が架かりました。