より高く飛ぶためにはより低く身を屈めなければならない。 ―令和4年度3学期始業式のご報告―
新年明けましておめでとうございます。
2学期の始業式は第七波の最中で放送による始業式となりましたが、3学期の始業式も第八波のため、放送による始業式となりました。始業式で生徒の皆さんにした話を紹介します。
◇卯年(うどし・うさぎどし)◇
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
令和5年(2023年)は卯年です。卯年に因んだお話を二つしたいと思います。まず卯年は兎の特徴から飛躍の年、向上の年、成長の年とされます。
「飛ぶ」と一言で言ってもいろいろなスタイルがあります。兎は鳥とか飛行機のように羽根や翼を使って空を飛ぶのではなく、いわゆる「跳(は)ねる」、「跳躍」すること、足で地面を蹴って空中に跳び上がります。跳躍という漢字には両方、足偏が付いています。その意味で兎の跳び方は人間に近い飛び方と言えます。
飛ぶというと一見華やかですが、飛ぶには結構な脚力が必要です。大地に足をしっかり付け、踏ん張って重力に逆らって跳ね上がるわけですから。
出典は定かではありませんが、よく引用される格言があります。「より高く飛ぶためにはより低く身を屈(かが)めなければならない。(より低く身を屈めた者がより高く飛ぶことができる。)」という言葉です。飛ぶことの陰には地道な努力や忍耐があるという側面も忘れずに飛躍の年にしたいものです。
◇干支の本来の意味◇
もう一つ、卯年に因んでお話しします。干支(えと)は、音読みすると「かんし」と読み、本来十干十二支(じっかん・じゅうにし)を合わせて干支と言います。今は一般的に「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」というふうに十二年で一回りをする十二支を指すことが多いのですが、もう一つ「甲乙丙丁戌己庚辛壬癸」というふうに十年で一回りする十干というものがあります。
十二支の方は今年、四番目の卯年ですが、十干の方は今年、十番目の「癸(き)」の年、訓読みすると「癸(みずのと)」の年になります。従って今年の干支を正確に言うと「癸卯(みずのと・う)」の年ということになります。十干十二支の組み合わせは全部で60通りです。一見10×12で120通りと思いがちですが、10と12の最小公倍数で60通りとなるそうです。(どうしてそうなるか後ほど考えてみてください。)
というわけで、卯年は12年後に再びやってきますが、次の「癸卯(みずのと・う)」の年は60年後ということになります。暦が一回りする、還暦という言葉はここから来ているんですね。
◇1963年は何の年か?◇
さて、今年と同じ「癸卯」の年は60年前にもあったわけですが、それは1963年です。ここで問題です。1963年と言えば、何があった年でしょう? 分かりますか? そうです。我らが聖カピタニオ女子高校が創立した年です。
ということで今年2023年、おかげさまで聖カピタニオ女子高等学校は創立60周年を迎えます。皆さん、ご愛顧ありがとうございます。改めて時代の重みを感じますね。
ちなみに現1年生の方は60回生です。年が59週した後、60年目の最初に入ってきたということです。皆さんが一年間を過ごすとまるまる60年が経ち(六十周し)、我が校も今年新たな最初の一年を踏み出します。学校の発展は在校生・卒業生の皆さんの飛躍、向上にかかっています。皆さんの母校のために今年もともに頑張りましょう。
校長 村手元樹
世は定め無きこそいみじけれ ~2022年を振り返って~
2022年も残すところ、あと僅かとなりました。皆様にとって今年一年はどんな年だったでしょうか。本校においては文字通りウィズコロナの年でした。安全第一は勿論ですが、大切な高校時代です。さまざまな体験を通して感じたり考えたりしてもらいたいことがたくさんあります。よい思い出も作ってもらいたい。このような思いを抱えつつ2020年、2021年と過ごしてきました。
◇ウィズコロナの年◇
今年は、幸い社会情勢の変化に伴い、制約は多いもののコロナ禍以来できなかったことが徐々にできる状況になってきたことは嬉しい限りです。まず全校朝礼もカリタスホームで行い、全校で祈る機会に恵まれました。4月には3年生が修学旅行に代わる宿泊旅行に行き、何とか旧友と寝食を共にする体験ができました。5月の創立記念日では全校生徒の歌声が久々にカリタスホームに戻ってきました。2019年12月のハレルヤコーラス以来の全校での合唱に目頭が熱くなりました。つま恋リゾートでの6月の修養会も三年ぶりでした。7月には2年生のオーストラリア短期留学も半年遅れて実施できました。9月には有名なミュージカル「キャッツ」を全校で観劇し、感動を共有しました。学園祭では三年ぶりにクラス展示を行い、各クラスで探究したことを分かち合う体験ができました。また全校生徒でお互いの舞台発表を観覧し合い、一体となって楽しみ、盛り上がりました。体育祭は全校がグラウンドに会し、青春の汗を流しました。感染対策で3年生のみでしたが、学園祭と体育祭の様子を保護者の方と三年ぶりに共有できたのもありがたいことでした。11月には三年ぶりに修学旅行を実施でき、沖縄で心に残る体験をしました。
◇コロナ禍と無常◇
12月になり、待降節の期間を通して自分たちが楽しむだけでなく、隣人と喜びを分かち合ったり、世界の人々の幸せを祈ったりすることに真摯に取り組み、クリスマス会も無事行うことができました。カトリック学校独自の行事にはじめて3年生の保護者の方にご参加いただけると心待ちにしておりましたが、コロナの第8波が到来し、叶わなかったことは誠に残念なことです。コロナ禍は、この世の中が無常であること、人間が本来、予想や制御のできない自然の変化の中で生きる存在であることを思い出させてくれました。昔の人はこの世が無常であることを覚悟し、日々それに対応し、希望を持って、その制約の中に少しでも豊かに生きる術を探っていました。むしろ平坦でない、紆余曲折のこの世のあり方にこそ人生の素晴らしさがある(*『徒然草』第七段「世は定め無きこそいみじけれ」)としたのは兼好法師です。
◇人生にトキメキを◇
大人になるとあっという間に一年が過ぎると言います。その理由をチコちゃんは「人生にトキメキがなくなるから」と答えていました。私事ですが、今年は時の経つのが幾分ゆっくりだった気がします。それは今年、生徒の皆さんとともに、コロナ禍の困難の中、さまざまなことをルーティンとしてではなく新たな気持ちで行ってきたからかもしれません。
来る年も皆様の上に神様の豊かな恵みがありますように。
校長 村手元樹
【朝礼の話⑤】加藤恵先生の思い出
正門の脇の金木犀が満開
◇慰霊の集いで読み上げられる名前◇
11月はカトリック教会では死者の月ということで、来週の木曜日に慰霊の集いが予定されています。毎年の慰霊の集いの中で「本校の関係者でお亡くなりになった方のお名前」が一人ひとり読み上げられます。その中には私がカピタニオに来る以前にいらっしゃった、一度も会ったことのない先生のお名前もたくさんあります。今ある学校の精神を作ったり繋いだりした、その方たちは過去の人ではなく、私たちの心の中で一緒に生きている人だなと私は思っています。
◇加藤恵先生のご葬儀で◇
今日はその中のおひとり、私が新任時代からお世話になった英語の先生、加藤恵先生の話をしたいと思います。2019年の11月に突然の訃報を聞きました。カピタニオを定年退職され、十年ほどが経っていました。お葬式に参列した際、弟さんが最後、挨拶をされ、「姉の人生にとってカピタニオ高校は本当に大きな存在でした。」とおっしゃっていました。
◇カピタニオの第2回卒業生として◇
恵先生はカピタニオの2回生です。足に障害を抱えていらっしゃって、ずいぶん辛い思いをされたと思います。中学の時にカピタニオというキリスト教の学校が出来たと聞いて、心の支えになるのではないかと思って入学したそうです。3年間先生たちには本当にお世話になったと恵先生はよく言っていました。
恵先生は必死に勉強して南山大学の英米学科に進学します。当時はカトリック推薦とかもない時代です。大学時代の経験で私がよく聞かされたエピソードがあって、お葬式の時に弟さんも話されていました。大学の先生に出身高校を訊かれ、「聖カピタニオ女子高校」と答えた時に、新設校だったこともあって、大学の先生が「どこだね、その学校は? 聞いたこともないな」と言われた。恵先生は愛する母校をそんなふうに言われて悔しくてたまらなかったようです。
◇カピタニオの英語の先生として◇
大学卒業後、恵先生は英語の教員としてカピタニオに戻ってきます。ここまでの話でたぶん優しい穏やかな先生を皆さんは想像したかもしれません。実はそうではありません。迫力があって豪快で口が少し悪い。今ならコンプライアンス的にアウトという言動もあった気がします。さっきの大学の先生の話をする時も「悔しかったですわ。」みたいではなく、「くそっ!と思った」と言っていました。
特に英語の勉強に関しては本当に厳しくて、授業でも予習して臨まない生徒はいなかったですね。お葬式の時、弟さんが恵先生が自宅でテストの採点していた時の様子を話していました。答案に向かってよく怒っていて「〇〇さん、何でこの問題ができんのォ?」などと言っているので、弟さんが「そんなに言わなくても」と理由を訊くと「この子はもっとできる子なの。」と力説する。自分がご苦労された分、生徒が努力を惜しむことについて自分のことのように悔しかったんだと思います。若い頃は「このくらいでいいか。」と自分をセーブしてしまいがちなんです。そんな生徒たちの力を何とか引き上げよう、背中を押そうという情熱を持っていた、厳しくて優しい先生でした。
◇「ちびたち」に込められた思い◇
恵先生は生徒の話をする時「生徒たち」と言わず、だいたい「ちびたち」と言ってました。幼い子供のことを親しみを込めていう「ちびっ子」のちびです。自分より背の高い高校生に「ちびたち」は変な気がしますが、何て言ったらいいか、子供でもあり、可愛い後輩でもあり、生徒でもある、未熟ゆえにこれから成長する、伸びしろがいっぱいある親愛なる存在という響きがこもっていました。
慰霊の集いで読み上げられる一人ひとりの先生にそれぞれのカピタニオへの思いや物語があります。もちろん会ったこともない人だから自分とは関係ないよと言うこともできます。そういった歴史みたいなものから自分を切り離して生きることもできます。でも、そういうことを感じながら生きる人生の方がより豊かになるのではないかと私は思います。皆さんは、どうでしょうか。
校長 村手元樹
*2022.10.20 全校朝礼
【朝礼の話④】沖縄の言葉の魅力
◇沖縄の言葉「しまくとぅば」◇
私はいま沖縄を舞台にした朝ドラを視聴しています。そこに出て来る、沖縄の言葉には優しく温かい響きがあり、生きる知恵がいっぱい詰まっているなあと思ったので、ほんの少しだけ紹介したいと思います。沖縄のことばを「しまことば」と呼んでいます。正確な発音は「しまくとぅば」と言います。沖縄の言葉は、短い「お(o)」の母音がなく、「う(u)」に変わるという規則性があるそうです。「ことば」の「こ(ko)」は「く(ku)」に、「と(to)」は「とぅ(tu)」に変化します。
◇はいさい・めんそーれ・ちばりよー◇
皆さんも聴いたことのある言葉がいくつかあると思います。例えば、「はいさい」、正式には男性が「はいさい」、女性「はいたい」と言うそうです。どんな意味か分かりますか? そう、「こんにちは」という挨拶です。「めんそーれ」聞き覚えありますか? これは「いらっしゃいませ」。「ちばりよー」は「がんばれ」。これは「気張る」から来ています。沖縄の言葉では「き」は「ち」になまるという規則性があります。
◇ちむどんどん◇
朝ドラでおなじみの「ちむどんどんする~」、「ちむ」は「きも(肝)」から来ています。「きも」は古語で「内蔵」や「心」を表します。「きも」の「き」は「ち」に、「も(mo)」は「む(mu)」に変わり、「ちむ」になります。したがって「ちむどんどん」は「胸がドキドキする」「心がワクワクする」という意味です。
◇なんくるないさ◇
さて皆さんに今日一番知ってほしいのが「なんくるないさ」という言葉です。聞いたことありますか。意味もなんとなく想像つきますよね。「自然と何とかなるさ」という意味です。「なんくる」は「自然と」「ひとりでに」という意味だそうです。この言葉、単なる気休めの言葉でなく、深い意味があることが今回朝ドラを見ていて分かりました。「なんくるないさ」は省略形で本来「なんくるないさ」の前にある言葉が付くようです。先週朝ドラを見ていましたら、主人公が「まくとぅそーけー・なんくるないさ」と言っていました。「なんくるないさ」は分かったのですが、「まくとぅそーけー」って何だ?と思ったわけです。
◇まくとぅそーけー・なんくるないさ◇
調べてみると、「まくとぅ」は「まこと(誠)」が訛った言葉です。「まこと」の「こ」は「く」に、「と」は「とぅ」に変わり、「まくとぅ」になります。「そーけー」はよく分からないのですが、「まくとぅそーけー」とは「人として正しい行いをしていれば、」「誠実に努力していれば、」という意味です。
つまり「まくとぅそーけー・なんくるないさ」は「誠実に努力していれば、自然にあるべきようになる」という意味の言葉だと分かりました。「なんくるないさ」は「必ず成功する」ということではありません。「誠実に努力していれば、神様があなたをよい方向に導いてくれますよ」ということだと思います。「人事を尽くして天命を待つ」という故事成語と同じような趣旨の言葉です。
この言葉ぜひ覚えてください。
校長 村手元樹
*2022.9.29 全校朝礼(オンライン)
【朝礼の話③】キャッツ解説 ―令和4年度芸術鑑賞のご報告―
◇キャッツのあらすじ◇
今日は、先日皆さんと鑑賞したキャッツの内容についてお話します。ミュージカルは音楽、美術、文学などが融合した総合芸術ですが、今日は文学的な側面から私なりに感じたことを三つのポイントに絞って振り返ってみたいと思います。先ずあらすじを確認しておきます。「今夜は年に一度の特別な舞踏会。そこに集まったジェリクル・キャッツの中から、最も純粋な猫が一匹選ばれ、新しい人生を生きることを許される。果してその猫とは?」というのが大まかな筋です。
◇ポイント①「死と再生の物語」◇
ポイント①としてキャッツは「死と再生の物語」と言えます。孤独な娼婦猫グリザベラが、最後天に昇っていく姿、これは何を意味するでしょう? 死、天国に行く、成仏する、捉え方はいろいろ出来ますが、一つの終わりを意味します。同時に、再生、天国で暮らす、仏になる、転生など、始まりを意味しています。
この物語の時間設定が夜であることも重要です。一日が終わり、眠りに就き、新たな一日が始まる、私たち人間も日々、終わりと始まり、小さな死と再生を繰返しながら生きているのです。主題歌「メモリー」も「デイライト 夜明けとともに 新たな命を 日はもう昇る」と歌っています。ちなみにキャッツで効果的に使われている「月」も死と再生の象徴となっています。満ち欠けがあり、30日周期で始まりと終わりが繰り返されますからね。
◇ポイント②「祝祭の物語」◇
ポイント②、場面設定が「舞踏会」であることも大きな意味があります。舞踏会のような場を文学的には「祝祭空間」と呼んでいます。人生の節目、行事、儀式、具体的には入学式、卒業式、学園祭、結婚式などもそうです。その反対が普通の時、日常です。日本の文化では昔から「ハレ」と「ケ」という言葉で区別して来ました。晴れ舞台、晴れ着という言葉もありますね。
ジェリクル舞踏会は、ジェリクル・キャッツたちのこれまでの人生を照らし出し、夜明けとともに新しい日常が始まります。私たち人間世界の卒業式も高校生活を照らし出し、新たな生活が始まる祝祭の場です。文学的には祝祭も死と再生の象徴と解釈されます。私たちはハレとケを繰返しながら生きているのです。皆さんもいま学園祭が終わり、日常を送っていますが、来週には体育祭というハレが待っていて、それが終わるとまた日常が訪れます。
◇ポイント③「救済の物語」◇
最後のポイントはキャッツは「救済の物語」でもあるということです。グリザベラは、他の猫から蔑まれ、疎んじられる孤独な存在です。グリザベラが最後に歌う「メモリー」の、「お願い 私にさわって 私を抱いて 光とともに」という心の叫びのような歌声は皆さんも強く印象に残っていると思います。こう歌うと彼女を今まで遠ざけていた他の猫たちが近寄ってきてグリザベラの体を撫で、グリザベラは心の救いを得るわけですが、これは単なるスキンシップではなく、その人生に触れる、その人生を受け止め、抱きしめることを意味していると私は思います。ここで言う救済とは生きていてよかったという思いです。
救済というとマザー・テレサのことが思い浮かびます。マザーは「死を待つ人々の家」を作り、道端に倒れ、誰にも顧みられることなく孤独に死んでいく人々を家に連れて帰り、介抱しました。手を握り、「あなたは大切な人です。神様から愛されています。」とマザーが言うと、その人たちは微笑んで小さくサンキューと言って息を引き取ったそうです。
私たちも日々小さな救済をしたりされたりしています。奉仕活動で老人ホームに行った時、お年寄りが昔こんなことがあったよ、そうなんですね、そんなことがあったんですね、と話を聞いてあげて、その人生に触れることとか、友だちに励ましや慰めの声をかけるのも小さな救済かなと思います。
以上、私はこんなふうにキャッツを見ましたが、皆さんはどうでしょう。何かの参考になれば幸いです。
校長 村手元樹
*2022.9.22 全校朝礼(オンライン)