【朝礼の話㊵】割れるグラスと割れないグラス
2025.11.08

今年、二度咲きした金木犀 @感謝坂


◇割れるワイングラスのたとえ◇

おはようございます。11月はカトリック教会では死者の月ということで、各クラスでの「慰霊祭」、全校での「慰霊の集い」が予定されています。今日はそれに関連して、生と死についての話をしたいと思います。

国語の評論でもお馴染みの内田樹さんが、こんな喩え話をしています。(*)

ここに美しいワイングラスがあります。ガラス製なので、割れないように大切に取り扱います。そんな気遣いをしなくてもいいようにプラスチック製のグラスとかもありますが、どうしても微妙な質感が違う。でも見た目も質感も全く同じような「割れないグラス」があったらどうでしょう? それでも人は「割れるグラス」のほうにより愛情を感じるのではないかということなんです。割れるからこそより大切に思える。

なぜでしょう? その理由は一つしか無い。それが手から滑り落ちて、床に砕け散り、割れてしまった時の喪失感を人が先取りして想像するからです。生花と造花にも同じことが言えるかもしれません。

 

◇メメントモリ◇

西洋に古くから伝わる、ラテン語の言葉に「メメントモリ」という言葉があります。「死を想え」「いつか死ぬことを忘れるな」という意味です。そうして始めて、「生きることの意味」「今日一日の大切さ」「誰かが生きたかった今日を生きているという感覚」が身に染みて感じられるからです。内田樹さんは、現代人が生きている実感に今一つ欠けるのは「死ぬことの意味」について考える習慣を失ってしまったからだと述べています。

 

◇時間の使い方は、いのちの使い方◇

「失って初めて気づく大切さ」ということをよく言います。でも人間には想像力があります。失う前に失われることを事前にイメージすることもできます。「死」を意識するということを「時間に限りがあることを意識する」「時間を意識する」というように言い換えてもいいかもしれません。Sr.渡辺和子は「時間の使い方は、いのちの使い方です。」と言っています。

高校生活にも終わりが来ます。その時間に限りがあることを意識すれば、高校生活の過ごし方、時間の使い方も自ずと変わってくるはずです。高校を卒業する時から振り返って今この時を見つめ直してみてください。

校長 村手元樹

*2025.10.30 全校朝礼

*内田樹『街場の現代思想』(2008、文春文庫)参照