
◇「原罪」とは何か◇
『氷点』のテーマとされる「原罪」は、旧約聖書のアダムとイブが神に背いて禁断の木の実を食べて以来、人類全体に引き継がれ、根源的に背負う罪(罪を犯してしまう性質)を指します。法律的な罪ではなく、宗教的な概念です。
『氷点』下巻の終盤で、高校生の陽子は「今まで、どんなにつらい時でも、じっと耐えることができ」たのは、「自分は決して悪くはないのだ、自分は正しいのだ、無垢なのだという思いに支えられていたから」だが、「自分の中の罪の可能性」を見てしまった、「今はもう、私が誰の娘であるかということは問題ではありません。」と言います。先祖をさかのぼれば悪いことをした人が必ずいるはずだと言うのです。罪を人間存在のあり方として捉えているのです。
読者である高校生の私は陽子が言っていることが今一つ分からず、「そんなに自分を責めることないよ、陽子ちゃん」と思ったのですが、「原罪」という作者のテーマ性が陽子の中に入り込んで、そう言わせているのだと思います(陽子はクリスチャンでもないので、少し不自然ではあります。)
◇なかなか伝わらなかった「原罪」というテーマ◇
宗教学的な解釈についてはハードルが高すぎるので、難しい話はさておき、一読者として「こんなふうに読めました」というレベルの話で述べたいと思います。
実際、同時代評でも「キリスト教的な考え方が一般にない日本で、一度に原罪の問題までいくのはムリでしょう」(吉屋信子)「このようにうっすらと通俗的な形では、原罪の何であるかを、読者に伝えることはむずかしい」(臼井吉見)とされ、三浦さん本人もブームの後、「~いまは失敗作だったと思っています。私の筆の力が足りなくて、私が本当にいいたかった、キリスト教の原罪ということが十分にわかってもらえなかったんですから……」と述べており、三浦さんの卓越したストーリーテラーの要素が前面に出てしまったことは否めません。しかし、思想が十分伝わるように書いていたら、ここまで多くの人に読まれなかった気がするので、三浦さんはずいぶん難しい課題に取り組んだと思います。『氷点』は、三浦さんのデビュー作であり、はじめて書いた長編小説だったのです。
◇夏目漱石『こころ』との関連性◇
私は「原罪」という宗教的な概念から一旦離れても、人間の普遍的な、哲学的なテーマとして十分読むことができると思います。『氷点』下巻の最終章に「人間の存在そのものが、お互いに思いがけないほど深く、かかわり合い、傷つけ合っていることに、今さらのように啓造はおそれをかんじた。」とあります。
これは何人もの論者が指摘するように夏目漱石の『こころ』のエゴイズムと通じ合っています。『こころ』の登場人物の「先生」は、「恋は罪悪ですよ。」「人間全体を信用しないんです。」「平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。」という人間観察をし、それを自分の中にも見出します。たとえ悪気がなくても「悪人」にならなくても、人間はその関わり合いのなかで知らず知らず、誰かを傷つける存在でしょう。『氷点』の登場人物も皆、そのような罪を背負っていると言えるのです。
「自分の中に一滴の悪も見たくなかった生意気な私」「自分のみにくさを少しでも認めるのがいやなのです」と自分のことを振り返る陽子は、『氷点』の最後で、人間が誰しも潜在的に持つ、そういった罪から自分も逃れられないことを自覚するのです。潔癖とも傲慢とも言えるかもしれません。
◇『氷点』と三浦綾子の戦争体験◇
先ほど「悪気がなくても」と言いましたが、「善意」でもそれが罪になるという強烈な体験を三浦さん自身がします。戦前に、彼女は小学校の教員として強い誇りを持って軍国教育に携わります。しかし敗戦を迎え、教科書の中で軍国主義の名残が残る部分を子供たちにスミで塗りつぶさせなければなりませんでした。自分が信じていたものが絶対ではなかったと知らされ、虚しさと子どもたちへの申し訳なさを感じ、教職を退きます。この体験も原罪に対する問題意識へと繋がっていったと思われます。
◇日々の祈りと罪の自覚◇
さてミッションスクールの多くでは、日々、「主の祈り」というお祈りを唱えます。その中に「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」という一節があります。また本校では「授業後の祈り」として、「わたしたちの弱さから行ったいろいろな過ちをゆるしてください。」と祈っています。日々の生活の中で生じる、罪や自分の弱さを自覚して向き合うことから、真の強さが生まれるのではないかと思います。
以上、『氷点』のテーマ「原罪」について考えましたが、 『続氷点』のテーマは「ゆるし」です。「主の祈り」からも分かるように「罪」と「ゆるし」はセットです。「罪」を自覚したら、「ゆるし」を乞わねばなりません。陽子は『氷点』の最後にようやく出発点に立ったと言えます。(『続氷点』へつづく)
校長 村手元樹
【読書の手引き】 「原罪」について自分なりに考えてみよう。