「置かれた場所で咲きなさい」という言葉の深い意味
2022.05.19

MicrosoftTeams-image (21) カピタニオ像前のマーガレットです。

 以前、このブログでSr.渡辺和子の『置かれた場所で咲きなさい』という本を紹介しました。4月13日の新入生オリエンテーションの折にもこの本に触れ、このタイトルの意味について一緒に考えました。その時にした話をダイジェストで紹介します。

◇「置かれた場所」は受身表現(受動態)◇

 このタイトルはSr.渡辺が本当に辛かった時に、ある神父様から渡された英語の詩の一節だそうです。英詩を直訳すると「神様が私を植えた場所」となりますが、「置かれた場所」という訳は絶妙だと思います。「置かれた」は受身(受動態)です。「I was born.」(私は生まれた)も受身です。自分が自分の意思ではなく(あるいは自分の意思だけではなく)、たとえ神と呼ばなくても何か大きな力によってそこに存在しているというのは人生の真理です。だから私がここにいるのはある意味、自分(だけ)の責任ではないと言えます。いつの間にか人間としてこの世に存在し、日本に生まれ、いま愛知県のこの学校にいる、それはまさに「置かれた場所」です。

◇「咲きなさい」は能動態◇

 しかしこのタイトルは文の後半で「咲きなさい」と能動態に転じます。つまり今私がこの場所にいるのは自分の責任でないかもしれない。でもそれを今度は自分の責任として引き受けて能動的に生きるというのが「咲きなさい」が意味するところだと私は思います。「自分の人生を引き受ける」ことは「自己を肯定する」ことです。日本の若者は自己肯定感が低いとよく指摘され、社会的に重要な課題となっています。

◇「置かれた場所」で咲かないといけないのか?◇

 このような表面的な批判が本に対してあったようです。でもSr.渡辺はそんなことを言っているのではありません。もちろん現代社会では居場所を変更することは基本的に個人の自由です。どんな場所であっても我慢して生きなさいということではありません。実際シスターは文庫本の後書きで「どうしてもここでは咲けないと見極めたら、場所を変えたらいい。(そうして幸せになった人もいます)ただし、置かれた場所のせいにばかりして、自分が変わる努力をしなければ、決して幸せを得ることはできない」とおっしゃっています。明治になって居場所の自由を得た現代人がその代償として自分の居場所を失う孤独を味わうと予言したのは夏目漱石でした。

◇大切な出会いは受身から始まる◇

 実は「受身」ということにも大きな意味があるのです。自分がまだその価値を知らない、未知のものとの出会いは受動態であることが多いです。なぜなら人は価値の分からないものに自ら進んで取り組むことはあまりしません。たとえば授業も置かれた場所と言えるのですが、特に苦手科目や好きでない科目の授業は基本的に受身モードで辛い場所です。やらされている感が強く、時には「どうしてこんな科目をやる必要があるのか」と毒づいたりもします。なぜならその時はまだ価値が分からないからです。しかし後からその価値がわかるとその時はじめて自分の世界は未知のものに開かれ、広がっていくのです。

 だからその時の自分が必要と思うものだけに取り組むという姿勢では自分の殻は破れません。食べ物にたとえると「好きなものしか食べない」「食わず嫌い」という状態です。自分にとって将来本当に必要なものが何であるかはその時の自分には分からない。なぜなら自分の世界を広げてくれる未知のものは大抵自分の理解の外側にあるからです。

 未知のものに取り組まされることによって未知が既知に変わって初めてその必要性に気づくものです。お母さんが子供にニンジンを無理矢理食べさせるのは、子供には分かっていない価値を母親は分かっているからです。子供がニンジンの価値に気づくのは後になってからです。自分にとって本当に大切な出会いの多くは受身の状態から始まります。

村手元樹