【朝礼の話⑬】心に染みる聖歌
2023.06.23

ルーチェ・ガーデンにマリアさまの花、白百合が咲きました。

 

◇心に染みる聖歌の歌詞◇

朝礼の時に聖歌を歌いますが、「聖歌の歌詞は、メロディと相まって本当に心に染みますね。」というお話をしたいと思います。今回の聖歌「よせる波」もいい曲ですが、前回の聖歌「主は水辺に立った」も本当に好きな曲です。この曲は個人的にも思い出の曲で、私の結婚式に参列した人たちが歌ってくれた曲でもあります。

この曲の歌詞で特に心に染みるところは「主よ、貧しい私、この手と清い心。これだけが自分のもの」という箇所です。このフレーズについて自分なりに少し考えてみました。

◇「貧しい私」とは?◇

「貧しい私」は「物資的な貧しさ」ではなく「精神的な貧しさ(心の貧しさ)」だと思います。では「心の貧しさ」とはどんなことか。聖書に「心の貧しい人々は幸いである」という有名な御言葉があります。この部分「自分の貧しさを知る人は幸いである」という訳し方もあって、この方が少しわかりやすいです。これによると心の貧しい人は自分には足りないところがある(不完全である)ということを自覚している人ということです。その人は同時に自分一人では生きていけない、他者の助けが必要である、他者に開かれ、他者とともに生きていく人でもあります。他者は人だけでなく物とか周りの世界など自分以外のすべてを指します。そんな貧しい私が、他者やこの世界と向き合っていくときに、自分の手と自分の清い心を一番大切にして生きていく決意が「貧しい私、この手と清い心。これだけが自分のもの」というフレーズには込められていると思います。

◇「この手と清い心」◇

「清い心」は混ざり気のない心、他者を素直に受け入れる心です。「心」に対して普通「体」だと思いますが、手に限定されています。なぜ手でなければならないのか。先日、ミロのヴィーナスについての評論を扱った「論理国語」の授業を参観して、その謎が解けました。そこには「手というものの人間存在における象徴的な意味」があって、「それは、世界との、他人との、あるいは自己との、千変万化する交渉の手段である。」と書かれていました。簡単に言えば、私たちが他者や世界と関わりを持つときに重要な役割を果たすのが手だということです。例えば物理的にも相手の荷物を持ってあげるのも手だし、手を振ったり、握手をしたりすることによって親愛の気持ちを示せる。手と手を合わせれば祈ることができる。あるいはサプライズのテレビ番組で一般女性のもとにイケメンの芸能人が突然現れる番組があって、最後に芸能人が「僕に何かしてほしいこと、ありますか?」と聞くと多くの女性が「じゃあ、頭ぽんぽんでお願いします」と言います。頭ぽんぽんするのも手ですね。すると「私、一生、頭洗いません!」と感激したりして、手って偉大だなと感じます。他者や世界と関わるときの比喩としても手がイメージされます。例えば「手を差し伸べる」「手助けをする」「手塩にかける」とかがそれです。

◇人生を豊かにする聖歌◇

ふだん何気なく聖歌ですが、聖歌は心の中に長く残って沈殿し、人生のふとした時にすっと浮かび上がって、私たちを慰めたり励ましたりするところがあると思います。最後に、あるエッセイストが聖歌の思い出を語った文章を紹介します。この人もミッション系の女子校の出身なんですが、プロテスタントなので聖歌を賛美歌、ミサを礼拝と呼んでいます。

 

【引用】私も、在校時、先生が「卒業生は毎朝の讃美歌がなつかしいって言うのよ」と話すのを聞いて、作り話だと思っていました。しかし卒業してしばらくしたら、自分も含めて卒業生は讃美歌や礼拝をしきりに懐かしがり、クリスマスになると母校のクリスマス礼拝に参列したり、同級生の結婚式で「ハレルヤ」を歌って列席者の間に微妙な空気を漂わせたり、カーオーディオで突然讃美歌をかけて同乗者をひかせてしまったりすることも……。(辛酸なめ子『女子校育ち』より抜粋)

 

皆さんにとっても、やがて聖歌がこんな存在になるかもしれません。

校長 村手元樹

*2023.6.22 全校朝礼