【せっかくBOOK⑥】モンゴメリ『赤毛のアン』その1
2025.07.23

百合の花@校門の花壇


 

◇『赤毛のアン』との出会い◇

私が新任でミッションスクールに来た時、職員室の隣の席が英語の先生で、その先生から英文学についていろいろとレクチャーを受けました。もちろん、本格的な授業を受けたわけでなく、日々の世間話の中です。考えてみれば、学校という場所は教員にとっても、その気になれば、いろいろな分野について教えを乞う環境にあるわけです。職場に図書室があるというのも本好きの私にとっては、ありがたい環境です。

その英語の先生の愛読書が『赤毛のアン』だったのです。生徒にも薦めていて、私もその影響で読み、今では自分自身の愛読書になっています。その先生と出会わなければ、その後もこの小説を読むこともなかったかもしれません。本との出会いは、しばしば人との出会いから始まります。

 

◇ともに歩み、成長する小説◇

『赤毛のアン』はビルドゥングス・ロマンの傑作と言えます。ビルドゥングス・ロマンは、教養小説、自己形成小説、成長小説などと訳されます。一人の主人公がさまざまな体験を通して、内面的に成長していく小説です。そのような小説の中で、女の子を主人公とした古典的な外国文学もいっぱいあって、特に昭和の女の子は、『赤毛のアン』を始めとして『小公女』とか『ハイジ』とか『足長おじさん』とか、そういう小説をたくさん読んで、主人公とともに歩み、追体験し、考えることで、成長していたような気がします。

そういった小説の多くには、お祈りをする場面や教会に通う場面など、信仰が生活に根付いていて、人々の心の支えになっていることが読み取れます。また人々の言動の底流にキリスト教の教えがあって、思いやりの心であったり、隣人愛であったりを学ぶことができます。そしてそれはキリスト教を越えて、人間の普遍的な生き方にも通じるものだと思います。

 

◇作者のモンゴメリと訳者の村岡花子◇

モンゴメリは、『赤毛のアン』の舞台でもある、カナダのプリンス・エドワードという美しい島で生れ育ちました。モンゴメリは敬虔なクリスチャン(プロテスタントの長老派)として育ち、後に牧師の妻になります。『赤毛のアン』にもキリスト教の影響が随所に覗えます。また英文学にも造詣が深く、そのフレーズがしばしば引用されているようです。1908年『グリーン・ゲーブルズのアン』を出版すると、たちまち世界的なベストセラーになります。

1952年、村岡花子さんが英語から日本語に翻訳し、『赤毛のアン』という邦題を付けました。日本で海外以上のベストセラーになったのは、村岡さんの魅力的な翻訳に加え、この絶妙なタイトルの吸引力もあったと思います。村岡さん自身も、クリスチャンとして育ち、カナダの教会が明治時代に創設したプロテスタント系のミッションスクールに通い、『赤毛のアン』との運命的な出会いに繋がっていきます。その半生をモデルにして描いたのがNHKの朝ドラ『花子とアン』です。

 

◇物語の始まり◇

物語はプリンス・エドワード島に暮らすマシュウとマリラという年老いた兄妹が畑仕事や力仕事を手伝ってくれる男の子を孤児院から引き取ろうと考えるところから始まります。手違いがあって孤児院から来たのは、この物語の主人公アン・シャーリーという11歳の女の子でした。妹のマリラは一晩だけ泊めてすぐに送り返そうとします。この美しい島で暮らせると希望に胸を膨らませていたアンは一気に絶望の淵に立たされます。今まで親戚や施設をたらい回しにされていた子です。

ここで気の弱い兄のマシュウはアンをこの家に置けないだろうかと気の強い妹に提案します。マリラは「置いとけませんね。あの子がわたしらに、何の役にたつというんです?」(*1)と突っぱねるのですが、突然マシュウは「わしらのほうであの子になにか役にたつかもしれんよ」と思いがけないことを言いだします。

 

◇役に立つとは?◇

この発想の転換、何気にすごいと思いませんか? マリラが尋ねているのは「アンが私たちの役に立つか?」という質問なんですが、マシュウが答えているのは「私たちがアンの役に立つかも」という答えです。論理的にはおかしいですよね。案の定、マリラは「きっとあの子に魔法でもかけられたんだね。」と皮肉を言います。

でもこれは無意識のうちにキリスト教の考え方の根幹を突いた言葉のように思います。人は何かの役に立つということによってのみ尊いのではなく、その存在自体が尊い、価値があるという考え方です。この後、いろいろあって結局アンを引き取ることになるのですが、この辺りも感動的で読み応え十分です。

 

◇無償の愛◇

このように始まりからいきなり面白い! 一気に物語の世界に引き込まれてしまいます。アンは創造力豊かで、おしゃべりで、好奇心旺盛。一方、赤毛というコンプレックスや、身寄りがないという孤独も抱えています。愛情にも飢え、教育もしっかり受けてこなかった。この後、いろいろな失敗や挫折を繰返しながら、美しく感受性豊かな賢い女性へと成長していきます。

その原動力はどこにあるかと言えば、やはりマシュウとマリラの無償の愛だと思います。「役に立つから、いてもいいよ」ではなく、「たとえ何の役に立たなくても、あなたがここにいてほしい」という居場所がアンの自信の源となっているのです。

本の最後の方で、マシュウが手違いによってアンと出会えたことをつくづく感謝する場面があります。「あの子はわしらにとっては祝福だ。運がよかった、いや、神様の思し召しだ。」と。兄妹にとってもアンの存在自体がかけがえのない喜びとなったのです。

 

◇隣人愛◇

作家の松本侑子さんは、『赤毛のアン』の主題は、「隣人愛の実践」だと言っています(*2)。この小説全体に亘る「隣人愛」の精神は、物語の最初のほうで何気なく引用されている詩の二行「小鳥たちは歌っていた。あたかも今日が/一年でただ一日の夏の日であるかのように」(松本訳)にすでに暗示されていることを指摘しています。マシュウが男の子だと思ってアンを駅に迎えに行く場面です。引用元の詩は、主人公が行き倒れの貧しい男を助けると、イエス様が現れるという内容の、19世紀の詩です。

モンゴメリの構想力、小説の奥行きの深さに驚かされます。松本さんはこれを踏まえて「(『赤毛のアン』は)慈愛と無私の心で人を助けること、すると助けた相手はもとより、助けた自分もイエスも救われて幸せになるというキリスト教の根本原理を描いているのです。」と述べています。(つづく)

                               校長 村手元樹

 

*1 本文引用は、モンゴメリ(村岡花子訳)『赤毛のアン』(新潮文庫、新版2008)
*2 松本侑子『なぞとき赤毛のアン』(文春文庫、2025)

 

読書の手引き 兄の意見を押し切り、孤児院との仲介役のスペンサー夫人のところへアンを返しに行ったマリラが、アンを引き取ろうと決意した気持ちを考えてみよう。