【朝礼の話㊳】石段の思い出
2025.09.26

ベニバナ・トキワ・マンサク@ルーチェガーデン (赤い若葉の先に咲いた、ピンクのリボンのような花弁が可愛らしい)


◇「清い心」と「きれいな部屋」◇

おはようございます。先週に引き続き、9月のテーマ「清い心」についてお話しします。の話です。「清い」の根本的な意味は「混じりけがない」「汚れやくもりがない」という意味です。「清い心」とはそうした「雑念がない心」ということになります。

それは「きれいな部屋」に例えることができます。毎日の手入れや心掛けがあってはじめて、きれいな状態が保たれます。心も同じです。どうしても雑念は生じます。純粋に「こうしたい」「こうしよう」と思っていても、日々の生活のなかで、誘惑とか怠け心とか勇気が出ない、やる気が出ないなど、いろいろな雑念のためにできなくて、反省して再び「清い心」を目指す、その繰り返しです。

そういう意味で、カピタニオの帰りのルーティンは象徴的です。教室の汚れをきれいにして明日に備えます。その後、お祈りをして失敗を振り返り、そののち「新たな心で善い業に励め」るように努めます。

 

◇石段の思い出◇

これに関して吉野源三郎さんが書いた『君たちはどう生きるか』という小説の中の「石段の思い出」という場面を紹介します。この小説は90年くらい前に書かれたものですが、今も色あせることなく読み継がれています。主人公が潤一という15歳の男の子です。あだ名がコペル君。コペルニクスから来ています。

コペル君がある時、友達を裏切るような行動をしてしまい、自分を責めて悩み苦しみ、寝込んでしまうほどになってしまいます。その時にお母さんが女学校時代の自分の思い出をコペル君に語って聞かせます。その思い出というのは、学生時代に神社の石段を登りかけた時、少し前をおばあさんが荷物を抱えてよたよた登っているのを見て、助けたいと思う。でもなかなかタイミングがつかめなかったり、躊躇したりしているうちに、おばあさんは登り切ってしまったというだけの思い出です。それだけの話ですが、母の心に妙に深く残って、時折残念な気持ちで思い出すという話に続けてこう言います。

 

◇コペル君の母の言葉◇

「でもね、潤一さん、石段の思い出は、お母さんには厭な思い出じゃあないの。

そりゃあ、お母さんには、ああすればよかった、こうすればよかったって、あとから悔やむことが沢山あるけれど、でも、『あのときああして、ほんとうによかった』と思うことだって、ないわけじゃあありません。それは損得から考えてそういうんじゃあないんですよ。自分の心の中の温かい気持ちやきれいな気持ちを、そのまま行いにあらわして、あとから、ああよかったと思ったことが、それでも少しはあるってことなの。

そうして、今になってそれを考えてみると、それはみんな、あの石段の思い出のおかげのように思われるんです。

ほんとうにそうよ。あの石段の思い出がなかったら、お母さんは、自分の心の中のよいものやきれいなものを、今ほども生かしてくることができなかったでしょう。人間の一生のうちに出会う一つ一つの出来事が、みんな一回限りのもので、二度と繰りかえすことはないのだということも、――だから、その時、その時に、自分の中のきれいな心をしっかりと生かしてゆかなければいけないのだということも、あの思い出がなかったら、ずっとあとまで、気がつかないでしまったかもしれないんです。」

まだ続きますが抜粋して紹介しました。機会があったら、全文を読んでみてください。

校長 村手元樹

*2025.9.25 全校朝礼